阿蘇山でホステラー仲間と別れた私は、一路、熊本に向けて出発しました。熊本に向けての道路は、大分からの道路と比べて、雪の量や凍結路も少なく順調に到達する事が出来ました。阿蘇山では、順調に熊本まで行けるとは考えて無かった事もあり、次のユース・ホステルは予約していませんでした。しかし、割と早目に熊本に到達出来た事で、先ずは、福岡辺りのユース・ホステルに一泊してから、帰る事を考えます。そんな中、行きで宿泊した太宰府ユース・ホステルのアットホームな雰囲気を思い出した事から、次のユース・ホステルを太宰府ユース・ホステルに決めて電話したところ、運良く予約が取れたのでした。

 

ほぼ、九州一周を終えた私は、既に12月27日にもなっていました。京都を出発して10日目でもありました。その頃、太宰府ユース・ホステルには、自転車で日本一周してる女の子が、ユース・ホステルに素泊まりしながら、沖縄に飛行機で行く為の資金をアルバイトで稼いでいました。旅行資金が枯渇気味だった私も、彼女に習い、バイト探しをする事にします。そして、太宰府の町を彷徨う内に、電信柱に貼ってあった建設会社のアルバイトに有り付いたのでした。それはマンションの建設現場での軽作業で、時は年末だった事もあり、働いても3日間という約束でした。

 

アルバイトの内容としては、建築中のマンションの建築廃材の片付けと、その他雑用で、大して危険もなく、3日間のアルバイト期間が終わってしまいます。自転車の彼女も、それに習う私も、食事は食パンを買って安価に済ませていましたが、ペアレントさん(お母さん)や、娘さんから、毎日の様に、暖かな差し入れがあり、大いに助かりました。当然ですが、僅か3日間のアルバイトでは、資金を充足するには至らずで、その後、ペアレントの口利きで、太宰府天満宮内の土産物屋さん(古城戸茶屋さん)で、昼食付きと言う好待遇で年末年始も働けることになりました。

 

つまりは、年末年始も、このユース・ホステル生活をキープする事が出来る事になったのでした。年末から働き始めた古城戸茶屋の最初の仕事は、餅つきでした。言われるままに、3臼(うす)程、餅つきをすると、運動不足の輩の両腕は、パンパンに状態になりました。夕方になってユース・ホステルに帰ったところ、ユース・ホステルでも、餅つき大会が開催されていました。既に腕はパンパンでしたが、私は率先して餅つきを買って出て、ユース・ホステルでも2臼ばかり、ついたものでした。餅つきが終わって、ペアレントから振舞われた餅は、忘れられない味となりました。

 

それは、ついたばかり餅を、醤油を混ぜた大根おろしの中に、千切って入れて食べると言う、生まれて初めての方法でしたが、本当に美味しかったと言う記憶があります。それから、当時のユース・ホステルでは、年末になるとそのユース・ホステルの常連さんが、ホームユースに帰って来るのが、通常の年末風景でした。年末のこの日も全国から大挙して、太宰府ユース・ホステルに帰って来ていました。彼等は、自分の郷里に帰るのではなく、太宰府ユース・ホステルで年末年始を過ごす為に帰って来るのでした。私がアルバイトをしていた3日間も、日を追う毎にユース・ホステルは賑やかになって行ってましたが、年末は特に多かったですね。

 

大晦日の夜のユース・ホステルは、大いに盛り上がった事は言うまでもありません。常連さんも、勝手知ったる我が家と言う雰囲気で、自分の家の様に気楽に過ごしていました。常連さんの中には、バイクで日本一周を終えたと言う人も居たので、前出の自転車で日本一周中の彼女も加わって、日本各地の話題に花が咲いていました。その夜は、特にミーティングと言う形式のものは、ありませんでしたが、初対面の人も直ぐに打ち解けて、皆んなで盛り上がった夜でした。全員で年越しそばを食べてから、部屋に戻っても、深夜まで色んな話をしたのですが、国鉄職員のホステラーの、国鉄あるある話を含めて、様々な話題で時を忘れて話し込んだものでした。

 

元旦からの古城戸茶屋の主な仕事は、太宰府天満宮名物の『梅ヶ枝餅』を焼く仕事でした。常に中腰を強いられる仕事は、かなり苦しい体勢でしたが、そこは若さで乗り切り、土産物売りのアルバイトをしていた、地元の女子高生と、昼食を一緒に摂ると言う毎日でした。太宰府ユース・ホステルに戻ると、常連さんに混じり、あたかもヘルパーの様に過ごす私は、ある種の真骨頂(有頂天)状態でした。昼間は太宰府天満宮でアルバイトし、夕方以降は、ユースホステルに戻って過ごし、時として、他のホステラーと共に『飛梅ツアー』とネーミングした遊びに興じました。

 

『飛梅ツアー』とは、さだまさしの名曲『飛梅』の歌詞通りに巡る太宰府天満宮の境内散策ツアーでした。飛梅の歌詞に、「心字池」に掛かる3つの赤い橋と言うフレーズがありますが、歌詞通りの動き(歌詞を参照願います。笑)をして、歌詞の2番目に登場する「お石の茶屋」でも、歌詞通りに振る舞うと言う(歌詞を参照願います。笑)、一般の人からすると、実に馬鹿げた遊びでしたが、ホステラー同士では大いに盛り上がったものでした。太宰府ユース・ホステルには、1月7日の朝までいましたが、年末年始を帰らなかった実家に、1月5日に連絡を入れると、祖父の墓を山の中腹に建立するから、実家に戻れと言われた事から7日に帰る事になったのでした。

 

自転車で日本一周中の彼女は、1月4日に沖縄に向けて出発しましたが、自転車を含めた多くの荷物は、太宰府ユース・ホステルに預かってもらい、単身で、沖縄旅行に向かったのには驚きました。沖縄にも自転車を持って行かないと、真の一周にはならないだろうと考えましたが、彼女にとっては、「一周」と言う事に、特別、意味を感じておらず、あっけらかんと「沖縄、楽しんで来ます!」と、ペアレントと娘さんに挨拶して出掛けたそうでした。そこで考えた事は、自分に当てはめても、九州一周と銘打ったところで、九州の外周をキッチリ回った訳では無いので、同じ様な感じだなって思ったものでした。

 

アルバイトの最終日には、古城戸茶屋の御主人から、温かな餞別を頂き(アルバイト料は日払い)、感謝しつつ、お別れとなりました。年末の建設会社も含めて、旅行先でアルバイトをすると言う、大胆にも貴重な体験が出来た事は、その後の人生でも、何かしらに生かされたと信じたいですね。話を戻して、父親から1月7日には、実家に戻れと厳命されていたので、久し振りにバイクに荷物を積んで、一路、広島の実家を目指しました。実家に到着した翌日からは、裏山の中腹にある、先祖代々の墓所に、祖父の墓を建立すると言う作業に従事するところでしたが、力仕事は既に職人さんが大勢居たので、大した仕事にはなりませんでしたね。

 

広島の実家から京都に帰る際には、岡山県の倉敷ユース・ホステルに一泊してから、京都に帰ったのですが、その時は、宿泊者の多くがバイク仲間だった事から大いに盛り上がりました。それから、何年か経過したある日、大宰府天満宮に、家族で訪問した事がありました。その頃には、ユース・ホステルの凋落振りは知っておりましたが、その時のメイン行事としては、大宰府天満宮で長女の合格祈願をする事だったので、その目的が達成された後は、当時、お世話になった古城戸茶屋さんに、その時のお礼でも言えたら良いなと漠然と考えていましたが、古城戸茶屋さんの店は、既に太宰府天満宮の敷地内にはありませんでした。時代の流れを感じると共に、良い思い出のひとつとして、心の片隅に留めておくしか無いと思いましたね。

 

※下記の人物写真は、昔の事で問題ないとは思いましたが、それでも一応、プライバシーに配慮して目線を挿入しております。

 

太宰府天満宮にてホステラー仲間と記念写真

 

 

太宰府天満宮内の「飛梅」で記念写真

 

 

 

お石の茶屋の前で記念写真

 

 

倉敷ユース・ホステルでバイク仲間と記念写真