私が結婚した当時、結婚式場と旅行会社がタイアップして、ハネムーン旅行をパックとする事が流行ってました。京都の結婚式場で式を挙げた後、午後からは友人達と過ごすプランでいた私達に、旅行会社の人から、当日出発のプランに空きが出た事で、もし、このまま夕方の便に乗って頂けるなら、1泊サービスで、5泊7日のプランにさせて頂きますが、如何でしょう?との甘い言葉に乗せられたカップルが3組いました。

 

全員が午前中に挙式を済ませた人達でしたが、その中の1組の方とは、今でも親交を持っていたりします。新婚旅行で訪れたハワイでの開放感が病みつきになった私は、「また、ハワイ旅行に行きたいな病」に罹患してしまいます。そこで、新婚旅行に行った年の年末にも、海外旅行に行く計画を立てたのでした。新婚旅行の催行会社は近畿日本ツーリストでしたが、その頃は、その会社以外の旅行会社では、天下のJTBしか知らないレベルでした。

 

そんな旅行プランの選択肢が、僅かに2社しかない状況下で、この無謀な旅行計画を進めて行くのでした。気持ち的には、完全にハワイ旅行一択でしたが、現実的には、手が出せない費用レベルの旅行プランでした。特に年末年始は、芸能人が大挙して訪れる憧れの観光地の上に、割高な正月料金も上乗せされて、既に予約待ちの状況でした。仕方がないので、幾分かの割安感があったアジアのリゾート地に旅行先を変更して情報収集する事にします。

 

当時は、まだ、インターネットの時代では無かったので、旅行会社に行ってパンフレットを貰うとか、旅行雑誌で情報収集するのが主でした。その時、候補に挙がった旅行先としては、シンガポール、セブ島、プーケット、マニラ観光等でした。当時、シンガポールの旅行代金が1人28万円弱でしたが、新婚旅行で、散々、お金を浪費した私達に、そんな旅行代金を捻出できる訳もなく、結果、マニラ旅行で妥協する事になります。

 

それでも、旅行会社は天下のJTBで、1人16万5千円の12月31日出発のプランでした。その時、他の旅行会社も知っていたなら、シンガポールくらいには行けた気がしますが、仕方ない話ではありました。旅行先には妥協したものの、それでも期待の海外旅行でしたから、ワクワクしながら、出発当日を待ったものでした。当時のマニラは、マルコス政権下で、丁度、アキノ氏が暗殺された頃でした。旅行当日、空港に集合した私達は、他のツアー客と共にマニラに出発します。

 

フィリピンのマニラの空港に到着した私達は、先ずは、全員でバスに乗り合わせて、宿泊予定のホテルに向かう事になります。マニラでの宿泊ホテルは「プラザホテル」(ずっと後で、銃撃戦の舞台になった場所です)でした。洒落たラウンジに、今回のツアーに参加する客全員が集まり、現地ガイドを交えての顔合わせがありました。ツアー客の面々を見ると、一様にセレブ感を纏った人達でした。やはり、マニラと言えども年末年始にJTBを使って旅行する客層でしたね。

 

その時、親睦を兼ねた軽い自己紹介の場がありましたが、その時には、漠然とした雰囲気しか感じ取れなかったものの、後から親しくなった何人かのツアー客の情報から、「医者の老夫婦」「京都毛皮商の娘」「会社社長と奥様」「会社役員」と、正に上級国民ではありませんが、最初に感じたセレブ感が肯定されたのでした。そんな中、生粋の庶民の私達は、その中では最年少だった事もあり、皆さんから可愛がって貰いましたね。中には、別目的の人も居たようで、男性2人組みの客は、最初と最後にしかいませんでした。

 

現地ガイドは日本人の女性でしたが、フィリピン人と結婚してマニラ住まいの方でした。バスの中で、現地ガイドが特に力説したのは、「とにかく甘やかしては絶対ダメです!バスにも手を差出してくる子供が多数いると思いますが、決して対応してはだめです!怠け者の国民性だから、彼らのためにもならない!」でした。確かにバスの下には、戦後の日本の「ギブ・ミー・チョコレート」ではありませんが、手を差し出す子供達が来てました。複雑な気分でしたが、見て見ぬふりをしたものです。

 

大晦日の夜は、爆竹の音がうるさい上に、ネオンサインも煌々と点いていたので、中々、寝付けませんでした。現地ガイドが、とにかく街は危険だから、ツアー以外では外出しないほうが良いですよ。道の端を歩くと、路地に連れ込まれて、良くて身包み剥がされる程度ですが、悪いと何処かに連れて行かれます。と言った事から、ホテルのプールや敷地内での滞在が主と言う、今思えば、勿体無かった気もしますが、それが、当時のマニラの社会情勢だったのでしょうね。

 

そんな時、ホテルのロビーの一角に、後姿に見覚え(特徴のある)のある人物が居るのを見つけます。その人は正に逆三角形の上半身で、足は短め、髪はロンゲ!と言う出立ちでしたが、これは、最早、あの人しか考えられないレベルでした。私達は、静かに背後から近づいて、声を掛け様とした瞬間。その「武田鉄矢氏」は急に振り返って、私の存在が判ってたような感じを漂わせながら、人差し指を口元に持っていき、シーッ!と言うポーズと共に、一言「プライベートだから」と言ったのでした。

 

そう言われてしまった以上は、私達もそれ以上は言葉を掛ける事は叶わなかったのですが、「ご事情は理解しました」と、表情と手振りをして武田鉄矢氏に合図を送って、その場を立ち去りました。その直後に武田鉄矢氏の傍らに駆け寄って来た、エキゾチックな顔立ちの美人の奥様と、娘さんらしい2人の女の子がいましたが、その奥様が、海援隊のファンで、いつもライブを見に行っていた縁で結ばれたと言う逸話の人物なんだなって思いましたね。

 

武田鉄矢氏の元から、止むなく去った私達でしたが、直後に会った東京から参加していたおばちゃんに、武田鉄矢がロビーに居る事をリークすると、とても驚いて、「息子がファンなの!サイン貰おう!」と向かいましたが、その後を聞くとやはり撃沈したとの話でした。その後、ツアーでタガンタイ観光と言う、峡谷に小舟で繰り出すツアースポットを訪れた際、その道中で立ち寄った売店で、初めてのモンキーバナナを食したものの、基本的には、バスによる市内観光を経て、帰国となりました。

 

空港では、面白い事に遭遇しました。警察官が伏し目がちに、少しづつにじり寄って来たのですが、何か意味深な雰囲気を漂わせていたかと思うと、いきなり自分のベルトを指差しながら「しぇんえん!しぇんえん!」と小声で連呼して来たのでした。つまり、それは、ベルトを千円で買わないかとのセールストークだったのでした。私はジェスチャーを混じえて、要らない事を告げましたが、私の後にいたツアー客が購入したいと言ったので、その件の警察官に、ツアー客を指差しながら買いたいと言ってる事を教えたのでした。

 

警察官は、腰からベルトを外すと、ツアー客に差し出しながら、再び、「しぇんえん!しぇんえん!」と小声で言いました。そのツアー客は、財布から千円札を取り出して、警察官に渡すと同時にベルトを受け取っていました。しかし、渡した筈のベルトの下には、さらに何本かのベルトを重ねていたのです。現役の警察官が別の商売を観光客に繰り広げると言う可笑しくも不可思議な国。それは、当時のフィリピンの世相を現した出来事だったので、今思えば感慨深くもありましたが、当時は、ただただ驚くと言うよりも呆れたと言うのがリアルな感想でしたね。