三好実休戦没碑

大阪府岸和田市小松里町604

戦国時代、三好氏の家臣として活躍した武将。

1527年、三好元長の次男として誕生。

兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長ら。

長慶は細川京兆家の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。

1539年、伊予国における河野氏との合戦に三好勢として参加。

1547年、細川晴元と対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに対抗するため、阿波の軍勢を渡海、舎利寺の戦いで大勝。

弟の十河一存は岸和田城主となった。

1553年、細川持隆を見性寺で自害させ、細川真之を阿波細川家の当主として擁立。

久米義広、佐野丹波らが反抗したが、実休はこ鑓場の戦いで破り、阿波細川家の実権を掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下に置いた。

実休は、持隆とその一党を、長慶の政権安定の為に排除し、阿波の掌握を目指した。

播磨遠征、北白川の戦いで四国勢を率いて参戦。

河内守護・畠山高政や安見宗房らと戦って大勝し、河内の守護を任された。

紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死。

実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。