笠置山の戦い

京都府相楽郡笠置町大字笠置

当地には笠置山の戦いを再現した像が設置。

弓で戦う武将は足助重範、巨岩を投げる般若寺の僧本性房。

1331年、笠置山において鎌倉幕府と鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇側との間で戦いが勃発。

持明院統と大覚寺統との間で皇位継承をめぐる紛議が起こり、幕府の調停によって持明院統と大覚寺統が交代で皇位継承をするとした。

持明院統の花園天皇の譲位により大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)が継承。

天皇は自身の直系の子孫に皇位が継承されることを望み、障害となる幕府打倒を企てる。

後醍醐天皇は京を脱出し、花山院師賢は比叡山へ向かい、天皇は四条隆資らとともに笠置山に至った。

幕府側は宇治で挙兵、笠置山を包囲して攻撃。

幕府側相手に善戦も幕府側の陶山義高らが笠置山に放火し、天皇側は陥落。

「太平記」では後醍醐天皇は笠置山の笠置寺に行在所を設けたが、庭に大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていた。

南に位置する上座には誰も着席しておらず、その席は誰のために設置されているのか疑問に思っているとき、童子が登場。

「その席はあなたのために設置されたもの」といい、その場を去った。

夢から覚め、「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、楠木正成(大阪府南河内郡千早赤阪村)を笠置山に呼び寄せた。