あの日のこと。 | 僕らが旅に出る理由

僕らが旅に出る理由

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2011年3月11日。
東北地方に未曾有の大地震が起きた。
幸い、僕は無事で家族も津波に襲われながらも
なんとか生き延びた。

僕はその頃、お坊さんで福島の浜通りにある
お寺で一人 暮らしていた。
心がかりなのは60キロ離れた街に住んでいる彼女。内陸なので津波の被害はなかったが、永遠と続くかのような余震と停電に恐怖の中で暮らしていた。
本当は今すぐにでも彼女に会いに行きたかったが
僕はお坊さん。
檀家さんや近所の人、たくさんの人がお寺に避難してくる。
こんなときだからこそ お寺も生きてる人の為に役立ちたいのだ。

3月13日。予想だにしないことが起きた。
30キロ北にある 原発がメルトダウンの危機。
そして原子炉が爆発。
とんでもないパニックが起きた。
避難する人々が東京方面に向けて 走っていく。
空にはヘリコプターやジェット機。お寺は山の上だったので海が見えたが 海にはたくさんの船。
僕は逃げなかった。
お坊さんがお寺を捨てて逃げる。なんてのは考えられなかった。
こんなときでも水を求めて逃げなかった人たちがお寺の井戸水を求めてやってくる。
そんなときに 坊さんが避難した。なんて思われたくなかったのだ。

ま、これも人生だ。と茅葺き屋根のお寺の屋根に寝転び 原発に向かう警察のライト。自衛隊のヘリの行列を眺めていた。
おれ、死ぬのかなー。とぼーっとしていた。
でも 彼女には会いたいな。ずっと思っていた。

毎日彼女とは連絡を取り合っていたが彼女は原発から100キロ以上離れていたので 安心だった。
でもニュースを見るたびに不安が募る。
風向きの影響で僕の住んでる街よりも内陸にあるはずの彼女の街に 放射能が流れ込んだのだ。

外出禁止命令が出た。
どんどん街からは人が避難していく。
お寺からは 東京へ向かう避難者のブレーキランプの行列が真っ赤な蛇のように 永遠に続いていたのが見える。

そして夜は 街の明かりが消えた。
誰も居なくなった街。僕は一人あるく。
彼女に連絡する。
会いたいね。会いたいね。


彼女の家はお父さんがJRで緊急出動が続き、
まずお父さんのクルマ。お母さんのクルマ。
おねえさんのクルマ。どんどんガソリンが使われていった。

次の日の夜、彼女からの電話。彼女は泣いていた。
もう逃げられなくなっちゃった。。
お父さんが出動のために 彼女の車のガソリンを持っていったのだ。
彼女の家は高濃度の放射能に囲まれ、全く身動きが出来なくなってしまったのだ。。。

僕もガソリンがない。このままだと離れたまま彼女と永遠の別れが来るのかもしれない。
会いたかったね。 会いたかったね。
死ぬ前に会いたかったね。
僕らは泣いた。

でもしばらく泣いた後、僕は立ち上がったのだ。
お寺の倉庫に草刈機用のガソリンが残っていた。
手持ちの20リットルのタンクにガソリンが入っていたのだ。

深夜1時。タンクにガソリンを少しだけ入れて、
彼女の街まで僕は走った。

途中の道はまさに この世の終わりでした。
東京に向けて逃げる避難者で大渋滞。
中には 途中でガソリンが無くなり、放置されたクルマがたくさんあって、歩いて東京方面に逃げる人もたくさんいたのだ。

彼女には 黙って向かった。
90分後、彼女の家についた。

電話をする。
玄関から外を見てごらん。
僕がいる。

号泣しながら彼女が出てきた。
長いキス。
お父さんも出てきて いきなり娘のキスシーンを見せられ 戸惑うお父さんw.

お父様に事情を話し、ガソリンを渡して
娘さんを 放射能の少ない私の街に避難させてください。お願いします。
僕は 頭を下げた。

お父さんは家族と相談しながらこういった。

家族全滅するなら一人だけでも助かって欲しい。

こうして僕は彼女と一緒に お寺に避難したのだ。

帰り道、避難する大渋滞と逆行し、海の方にある私の住む街に向かった。

平和だった頃 一緒にいった駅前のBARに寄ってみた。
36万人都市の駅前はゴーストタウンと化している。
僕と彼女は手をつなぎ、誰もいない街を無言であるき続けた。。

夜明けを2人でずっと見ていた。