第二次世界大戦、二二八事件、白色テロという歴史の大波に翻弄された台湾人6人に自らの体験をを語っていただくことにより構成された作品「台湾アイデンティティー」をご紹介します。

日本の戦後を描いた作品は沢山ありますし、ドキュメンタリーやニュースなどでインタビューを見聞きする機会も多いのですが、戦中は日本であった台湾が、敗戦後どのようであったかを知っている日本人は少ないと思います。

戦後、台湾を顧みなかった日本ですが、今からでも過去を認識することで、台湾はもとより自国のことへも新たな視点を得て、理解が深まると思います。

台湾を知ることは日本を知ることへも繋がります。


台湾の原住民族ツォイ族出身の超エリート高一生とその娘・喜久子さんや親族たち。

高一生は日本統治下時代には警察官や教員を務め、戦後は郷長となりました。

しかし、蒋介石率いる国民党から要注意人物と認定されてしまい、無実の罪で処刑されてしまいました。(90年代に名誉は回復しました)

高一生の長女の喜久子さんは、高一生の処刑後は家計を助けるために歌手として大活躍しました。

しかし高一生の娘ということで共産党扱いされ、度重なる尋問を受けていたのだそうです。


喜久子さんの大叔父の劉茂李さんは日本兵として戦ったそうで、それはとても名誉なことだったと振り返ります。

自分のことを日本人だと思っていた、日本が負けたから日本人にはなれなかった、と涙を流されました。


台湾少年工の一員として神奈川県の海軍軍需工場工へ渡った黄茂己さん。

挺身隊員だった奥様と知り合い、敗戦直後に甲府で結婚しましたが、父親の病状が悪化したので台湾へ帰国して小学校教員として定年まで勤めました。

今は他界されている奥様との深い愛情を感じることが出来るインタビューでした。

日本で学んだ教育環境の美化なども取り入れ、民主主義の本質を子供たちに伝え続けたそうです。


呉正男さんは台湾の小学校を卒業すると東京の中学校に進学していたんだそうです。

日本兵として北朝鮮で敗戦を迎え、中央アジア捕虜収容所に2年間抑留され、強制労働を強いられました。

台湾へは戻らず日本へ戻ることになります。

二二八事件の頃の台湾情勢のもと台湾で暮らす父親からは、戻ってこずに日本で勉強をしなさいと言われ、大学卒業後は信用組合横浜華銀に就職されました。

呉さんはインタビュアのどんな質問にも鷹揚に優しい笑顔で応えてくれるのですが、それが尚更悲しくてやりきれません。


千人の日本兵とともに戦後はインドネシアに残ったという宮原永治さんはジャカルタ国籍を取得していますが、「日本人としての誇りを持っているから、日本名を汚すようなことはしません」と強い口調で仰っていました。

70年代には日本企業のジャカルタ支社へ就職し、日本へは何度も出張を重ねていたそうです。

死ぬときはインドネシア人として死ぬことになるが、墓標には日本名も刻んでもらうと望んでおられました。


台湾人の父親と日本人の母親との間に生まれた張幹男さんは、戦後台湾独立派だったので❝反乱罪❞で逮捕され、8年間もの年月を火焼島(現在の緑島)の政治犯収容所で過ごすことになりました。

激しい思想洗脳を受けながらも、出所後は自ら旅行会社を立ち上げ、同じ島帰りの政治犯を社員として受け入れました。

日本の敗戦により❝台湾は見棄てられた民族である=(だからこそ独立が必要)❞と叫ぶように断言されたのが心にグサリと刺さりました。