かもめのジョナサン【完成版】
リチャード・バック (著), 五木 寛之 (翻訳)
新潮社(2015/7/1)
カモメの群れの常識に疑問を抱き、
自分の信じる道を突き進むジョナサン。
カッコいいとは思うが、どこかに違和感があった。
ジョナサンは餌を食べることを忘れるほど、
飛行技術を高めることにのめり込んでいく。
人間からすれば自由に空を飛べることは憧れであるが、
すでに飛ぶことができるかもめが
なぜ、そこまで上達を目指すのだろうか?
カモメにとって飛行技術を高めることが必要な理由を考えるとき、
「餌を効率よく得るため」や「天敵から逃げるため」のように、
生きていくために必要なものならわかりやすい。
しかし、ジョナサンは飛ぶことを通して生きることの意味を考えるという
かなり奇妙な存在なのである。
(そもそも、カモメのくせに立派な名前があるのは生意気な気もする)
フィクションなのだから、そんなことは気にする必要はないという意見もあるだろう。
動物を擬人化して読む人に親近感を与える手法はありふれたものであるから、
単純なカモメの物語であれば問題ないはずであるが、
この『かもめのジョナサン』はなにか違う気がした。
そして、その違和感の正体にパート4を読んだときに気づいた。
ジョナサンは単なるカモメにどとまっていなかったのだ。
ジョナサン自身は望んではいなかったのだが、
周りのカモメたちはジョナサンを神のようにとらえている。
キリスト教で、キリストが神の子として特別扱いされているように、
ジョナサンもただのカモメとは異なる扱いをされる。
つまり、本書は単純にカモメを擬人化している物語ではなく、
「カモメ→人間→神」という進化の物語なのである。
それを踏まえて、あらためてジョナサンについて考えてみた。
ジョナサンは常識に挑戦する勇敢なカモメであると言える一方で、
生き物の本分を逸脱して神になろうとする不遜なカモメであるとも言える。
そして、今思う『かもめのジョナサン』における重要なセリフ
パート1における長老カモメの言葉
「……ジョナサン・リヴィングストンよ、汝もやがてはさとるであろう、
無責任な行いが割りにあわぬものだということを。
われらの生は不可知にして、かつはかり知れざるものである。
わかっていることはただわれらが餌を食べ、
そしてあたうる限り生きながらえるべくこの世に生をうけたということのみなのだ」
20年前に読んだときは、典型的な古い考え方であり、
ネガティブな印象があった。
しかし、昨今のSDGs的な思考から始まる一連の脱成長ブームを考えれば、
最先端の考え方であるとも言える。
ジョナサンが無理をすることによって違和感が発生している状況に、
筆者が進化の物語を否定する裏メッセージがあると感じた。
カモメはカモメとして、
人間は人間として、
無理せず生きるべきなのだろうか?