onaminaminamiのブログ

onaminaminamiのブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!

 『シャーマンキング』という漫画がある。大雑把な説明になるが、主人公のシャーマン・麻倉葉がシャーマンキングを目指し、世界各地のシャーマンと交流していく(主に東京で)話だ。 

 そして話の中盤辺りで「恐山ルヴォワール」という、主人公の過去を描いたエピソードがある。切なくも甘酸っぱいこのエピソードが、私はなんとなく好きなのだった。この話を読んで以来、私はルヴォワールという単語が、意味を調べるわけでも無く、闇雲に気になっていた。これが『丸太町ルヴォワール』を手に取った、二つの理由の内の一つである。

 かつて私は西尾維新氏にはまっていた。最初に読んだのは『戯言シリーズ』という京都を舞台にした小説である。舞台が京都である必要性はあまり無かったと、今にしてみれば思う。しかし、以来私は、この「京都」という幻想になんとなく魅了されてしまった。京都出身・京都大学出身の作家、京都が舞台の小説。これらの条件が、次に読む小説を選ぶ基準となった。勿論それ以外の小説も読んでいたが、大部分がその条件を満たしていた。 

 『丸太町ルヴォワール』の舞台は京都。作者の円居挽氏は京大ミステリ研の出身。これがこの本を二つ目の理由だ。タイトルに京都の地名と気になる単語が入っている。この小説を読まない理由は無かった。

 本書は推理小説に分類できる。ざっくりとしたあらすじはこうだ。大病院の経営者、城坂慈恩殺人の容疑をかけられたのは、孫である城坂論語。論語は事件当日、謎の女・ルージュがいたと証言するが、痕跡は一切見つからない。そして開かれるのが、京都で古来より行われてきた私的裁判、双龍会(そうりゅうえ)だ。物語の本編では、その双龍会の様子が大部分を占めている。

 弁護士を務めるのは瓶賀流と御堂達也のコンビ。対する検事側は双龍会の名門、龍樹家の家長・落花と大和。裁判パートでは、論理の攻防が目まぐるしく展開されていく。

 一章では論語を語り手に、本編の三年前、ルージュとのやり取り描かれている。私が一番好きなのはこの章だ。白状すると、初めて裏表紙のあらすあじを読んだとき、“私的裁判、双龍会”という言葉に、物語全体の胡散臭さを感じてしまっていた。しかしその胡散臭いイメージは一瞬にして霧散した。論語とルージュの会話があまりに知的であり、艶めかしいのだ。初めて読んだ時の、二人の甘い空気に飲まれる心地よさは、今でも忘れられない。これは実際に読んでもらいたいので、あえて紹介するのは避けようと思う。

 そして地の文、すなわち論語のモノローグも魅力的だ。こちらは一文引用する。

“束の間の沈黙をウグイスの鳴き声が埋めました。きっと庭の梅の木のでもとまっていたのでしょう。”

ルージュが自信満々に自らの推理を披露した後の文で、これで私は惚れてしまった。沈黙を破るホーホケキョという声を想像して見て欲しい。それだけで、ルージュの推理の正否がどうだったのか、想像できないだろうか。そしてかつ、この場面は推理小説としてフェアであることを保つ布石ともなっているのだ。

 二章は所謂“捜査パート”。そして、三章は“裁判パート”である。正直に話すと、これらの章を読むは苦痛である。それもそのはず、この小説は推理小説なのだから。推理小説において、事件が起こるまでの間・探偵役が推理を披露するまでの間は、ほとんど話が進展する事は無い。言わば“解決”に向けた下積みなのだ。下積みとは往々につまらないものである。ただし、下積みには下積みならではの楽しみ方が、魅力が隠されている。また、勿論下積みの合間にも話は進展するし、飽きさせることは無いので安心して頂きたい。 

 実を言うと、これ以降の感想を述べることはできない。ここまで来てしまうと、内容を伏せたまま一番の魅力を紹介する事が、どうしても出来ないからだ。それを補うため、最後にこの物語を一言で表して感想に代えさせて頂くこととする。

 この物語を一言で表すなら、「子不語の夢」だ。本文中に登場する言葉であり、これほど相応しい言葉を私は知らない。子、つまり孔子が語らない夢。何故語らないのか、もしくは語れないのか。それは読み手次第なのだろう。しかし、紛れもなくこの物語は「子不語の夢」なのだと私は思う。

 本書を読んで私の人生は変わった。これは大袈裟な表現ではない。ルージュが論語を表した言葉。

“言の葉を吹いて寿と為す、だから言吹き”

 代表するならこの一文で、私の人生は変わった。それまでの私は、物事を悲観することが多かった。どんなことでも、違う見方、言葉を使うだけで“寿”に出来る。そのことを教えてもらった。

 人生はそんなに甘いものではないかもしれない。しかし、この言葉を思い出し、物事を見つめなおす事が出来たなら、多少なりとも人生は祝福されるのではないだろうか。