私が生まれる50年以上も前に亡くなった曾祖父の書いた文章を初めて読んだ。

それは若くして亡くなった妻(私の曾祖母)がどのようにして最期を迎えたを書いたものだった。

昭和6年だから読みやすい文章ではないのは当然なんだろうけど、

文体があまりにも文語体だったので、曾祖父はあえてそのように書いたのかもしれない。

妻の死を書くということは男尊女卑真っ只中のその時代と現代ではわけが違う。


文語体にすることで、ストレートに書けないことも書けたのだろうか。

色んな想像が駆け巡った。

その文章を読んでいると目の前で起きた出来事をどこか客観視している感じがして、それがまさしく私のルーツだなと思った。


自分に起きた出来事に対しての喜怒哀楽と、同時進行で感想文を書いているもう一人の自分がいるという感じ。

それが私の中には常にある。

そしてそれを誰かに伝えたいという思いから、文章を書くのだろう。


文語体という言葉さえ知らない体育会系の父が二回読んだらしい。

父にとっては祖父だからもっとルーツを感じるはずだ。


これまで血統とか家系とか全く考えなかったけど自分を知るヒントがたくさんあると思った。

というより、

じいちゃんのじいちゃんばあちゃんのばあちゃん
たちが
私に教えてくれるのだ。

ありがとう。


家族はすごいなと思った自分にびっくり(笑)

少しは私も大人になったんだろうなぁ。