今日は新月で、日本では見られぬが日食だったみたいです。
新たなはじまりーって、思っていたら、やっぱ天文は恐るべし。
さあて。
過去記事を更新するだけではなく、書くべー!角兵衛!ほらどっこい。
と、ワタシの「命」、いな、命が果てても続いてゆく…
いわば、「魂」の二本松の提灯祭りが「来月」。
そう、来月になりました*゚Д゚)*゚д゚)*゚Д゚)
10月4~6日。今年は、平日の火曜からです。
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書くのをまたも、ためらったのを後押ししてくれる、
仲間からの情報であり、このタイミング。
偉そうに言えないのです。
けど、言うの野暮かもとか、そんなん気にしてらんない。
逆に言って、仲間をつのらんと。
ブログの粗相もまだまだあるけれど、
成長しますので、よろしくお願いします。
◆ハカマデ
昨日、新暦8月31日は、戊辰戦争における二本松の戦い、
二本松城が落城した、旧暦7月29日でした。
「墓まで」
二本松まで行こう、と思ったのですが、
旧暦では何処も何もないとのことだし、もしかしたら青山霊園では
オフレコで何かあるやもしれん、と考えました。
何かなくても、わたしは東京人であるし、
すーぐ、二本松やらアイに行っちゃうので、その衝動を抑えようとも思って( ̄ー☆
この写真も撮ったら、二本松藩のお墓(左端)から、虹みたいに。
とても美しいので、載せさせていただきます。
粗相に感じる方、お許しください。
「袴で」
お祭りと、この旧暦の7月29日は袴にしようって。
いやー、暑かったないヾ( ̄0 ̄;ノ
これで、お墓の掃除、猫の手も借りたし、でした。。
けれど、
この格好で、木村銃太郎は戦ったと言われています。
まだまだ、わたし。
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先ずは「一人で」。
一人でやりたいことも、一人でやらざるを得ないことも、あると思うし、
一人だからスゴイとか、そういうことではないけれど。
「一人でも」やれる想いかなって。
一人遊びは得意だし(笑)、一人暮らしも続けていますが、
一人だといっぱいいっぱいになることもあるけど、だからこそ。
けど、一緒に純粋に「いっぱい」共有できる人がいるのはよいない(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノ
「いっぱい」で、酒を酌み交わすシーンを思ってしまったワタシ←一杯
この世を、みんなで楽しんで、生きたし。
行きたし!
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◆ハッピーエンディングより
「六輔永(ろくすけ なが)のお別れ会」が30日、東京都港区・青山葬儀所で営まれた。
《黒柳徹子さんのお話》
永さんは私が死んだときの葬儀委員長をやるとおっしゃっていたのに、思惑が外れて申し訳ありませんでした。60年以上お友達でしたけど、一度もけんかしたことがありませんでした。本当に仲の良いお友達と言っていいと思います。亡くなる4日、3日ほど前にお見舞いに行きました。それまでは行かない方がいいかな、と思ったんですけど。永さんはずっと寝ていましたが「永さん!!」って呼ぶとぱっと目を覚まして私の方を見て、あははははってうれしそうに笑ってまた寝ちゃいました。3回か4回同じことを繰り返して…それでお別れしました。
今日はなるべく楽しいお話がいいというので、永さんのあごが外れた話をちょっとします。夜中に原稿を書いていて、あくびを止めようとほっぺたをたたいたらあごがガクッと外れちゃったそうです。どうしていいのか分からなくて、電話帳で整形外科を調べてタクシーに乗って行こうと思ったんですが、あごが外れるとしゃべれないってことを気づかないで、運転手さんに「あががが…」「あががが…」って言ってたら、運転手さんがお化けだと思って「降りてください」って言ったんです(会場爆笑)。家に戻って今度、紙に「あごが外れた、驚かないで」って書いて奥さまの昌子さんに見せたら、すぐに一緒に行きましょうってことになり整形外科の先生に看てもらったそうです。あごを入れるのは相当乱暴な仕事だそうで、最終的には寝てなさいと言われて足で抑えて上からガーンってやったら入って、「あ、永さんだったんですか」ってその先生が言ったって(会場また爆笑)。
若いころは私たち渥美清さんとも仲が良かったんです。NHKに出ていたんで有名になるのは早かったんですが、お金がなくてみんな貧乏でした。中華料理を一緒に食べに行ってエビチリを頼んだんですが、人数からしてエビチリの数が少ないとけんかして、私は3個くださいって頼んだんです。渥美さんは「徹子、俺が働いて、数えなくてもいいように食わしてやるよ」って言ったんです。後で考えてみると、本当に寅さんのようでした。その時、永さんが「いや、そんなことないよ。今が一番幸せなんだよ。年とって食べられなくなって、いっぱい余っていても食べられなくなる方が不幸せじゃないか。今のようにみんなで“3個!”って言ってる今が一番幸せだ」って。そのとき、永さんは大往生のことをおっしゃってらしたんだなって思います。
奥さま、昌子さんが亡くなったあと、永さんが「講演に行って『僕は黒柳くんと結婚しません』って言うと、みんながわーっと笑うんだ」って言ってました。しばらくしたら受けなくなって、「このごろ黒柳くんと結婚しますって言ったら受けるんだよ」って。…でも、私はあなたとは結婚しないと思う、って言ったら、お嬢さんが「ダメだと思います。2人で朝から晩までしゃべって、どっちも言うこと聞いていないと思います」って言われたの。それもそうかなと。永六輔さんほどの難しい人とあんなに長く結婚されていた昌子さんは本当に良い奥さまだったと思います。多分、もう昌子さんにはお会いになったんでしょう。一番永さんが待っていたこと-。
徹子の部屋も39回の最多出場者で、そこで面白い話をしようと方々駆けずり回っていつも新しい話を仕入れてくれていました。もう、こんな長い話して、最初5~6分っていうことでしたんでね(会場爆笑。すでに20分ほど予定を上回る)、止めることにいたします。永さん、私はあと10年「徹子の部屋」をやろうと思っていますけど、はっきり言って永さんがいらっしゃらないこの世の中は非常につまらないと思っています。あなたが守ろうとした子供たちが、幸せに生きていってくれればいいと思っています。永さんが亡くなられたのは最後の一撃っていうふうに感じています。どうか永さん、私たちを見守ってください。「夢であいましょう」であなたがいっぱいお書きになった歌、忘れないようにして生きていきます。永さん、60年以上いいお友達でいてくれて本当にありがとうございました。心から永さんの優しさに感謝します。またどうせ近いうちにお会いすると思います。そのときに…また。じゃあね!
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生きているうちに、たくさん会いたい。
会いたいから、会おう。
会いに行こう。