今日も暖かい。曇ってるけどもう春みたいだ。


たっぷり寝て起きて、先日届いたちょっといいお値段のするコーヒー豆を挽いて淹れた。

もう何年も前に、知り合いが三茶にある店舗に連れていってくれて飲んだコーヒーがそれはそれはおいしくて、それから何度かそこで購入することになった。

今回は某アーティストのコラボで、数種類の豆のブレンドなんだけど、これもまたとてもおいしい。

地元で豆を調達するときも、いちおうある程度はこだわって、なるべくおいしく飲めるものを選んでるつもりだけど、それでもやっぱり専門店の豆は一口飲んだだけでハッとするほど特徴がある。

水の味の違いはまったくわからないわたしでも、さすがにコーヒーの味の違いはわかる。


などと考えながら、ずっと抱かないようにしようと気をつけていた類いの感情が、突如ぶわっと溢れまくってしまったことに戸惑うなど。

それを落ち着けるようにコーヒーでいっしょに飲み込んだ。


しかし時間をかけてこの種の感情のコントロールについてはかなり鍛えてきたつもりだけど、やっぱりまだこいつだけはしぶとく残ってるんだな。

なんとなく記憶に残ってる。

前にこの状態になったのは約半年前だ。

半年は押さえつけることに成功したってだけでも成長したといえるのかどうか。

これからも、ちょっとずつ鍛えていくしかないか。



そういえば最近、やたら猫の夢を見る。

普通に元気な姿で家にいてゆったり過ごしていて、ごはんを欲しがるので「これなら食べるかな、こっちのおいしそうなやつにしようかな」と選んで与えると、完食するのでうれしくなる。

なんだ、元気じゃん。

と思う夢。


毎回同じ内容なのはなぜなのかわからないけど。


そろそろお墓参り行こうかな。

さびしいのかもしれないな。


ここのところ、長年SNSで拝見していた某アーティストの愛猫さんが生死の境をさまよう様子が流れてきたり、某配信者の愛猫さんが急死した知らせを目にしたりして、みんなあのつらい時間を過ごしてるんだなと約半年前のじぶんの心情と勝手に重ねて想像してしまう。


まったく同じではないにせよ、あの独特な時間のそのときにしか生まれない感情とか思考とかは、きっと動物と暮らす人間にはおよそ共通してるんじゃないか。


わたしの場合は猫が発病してから3年かけて、徐々に気持ちの整理をつけていけたので、いざそのときが来たという段になってもかなり落ち着いていたし納得もできたけど、急に死なれるというのはさすがにかなりきついだろう。


でもそれを受け止めて乗り越えるということも、動物を飼う人間には向き合うべき義務であって、ひとつの命をある意味拘束してきたことへの罰でもある気がしてるので、決して逃げるべきではないとも思う。


周りは「あなたと一緒に暮らせて猫は幸せだったと思うよ」なんてことを言ったりするけど、そしてじっさい本当にそうなのかもしれないけど、それを「そうだよね」なんて肯定することは全然できない。

どこでどう生きることが彼ら彼女らにとっての幸せかなんて、人間が決められることじゃない。



とかなんとか言ってても、ただただかわいがっていた猫が病気で弱っていくのを目の当たりにするつらさも、目の前で死なれることの純粋な悲しみも知っているつもりなので、誰かが直面しているその感情もじぶんなりには想像してる。でも、あとは正直もう個人個人がどう乗り越えていくかってことでしかないので、がんばれがんばれと思うのみ。



さ、休憩おわり。

ざーっと見直しして納品行こう。



10年前はほとんどこのレーベルの仕事ばっかりだったな、と感慨に耽りながらここ1週間はひたすら読んだ。

昔はこんなに精度高くルビ振られてなかった、というのが一番の驚き。

当時はルビの作業だけで相当時間がとられてたのに。

AI、まじで進化してきてる。

本気であと何年か後にはわたしたち、最低限のことしかしなくてよくなる気がする。


でもそのおかげで他に時間が費やせるのはありがたい。

だからさ、仲良くやっていこうよわたしたち。

あなたがわたしの負担を減らしてくれるぶん、わたしはあなたの足りないところを補っていくからさ。

これからもどうぞよろしくね。