こんな非常事態は、心穏やかにいられない人も多いのではないでしょうか。
目を閉じて、綺麗な風景をイメージしてください。
心が穏やかになります。
汚れのない、綺麗な世界です。
争いもない
嘘偽りのない世界。
不安は一切ない穏やかな世界です。
こんな非常事態は、心穏やかにいられない人も多いのではないでしょうか。
目を閉じて、綺麗な風景をイメージしてください。
心が穏やかになります。
汚れのない、綺麗な世界です。
争いもない
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人間とは何か?精神とは何か?そして、自己とは如何なるものであるのか?
人間が、自己とは何か?を問うときに、実は、問うている自己と問われている自己と、二つの自己があるということが分かる。
それらは、問うている認識主体の自己と、問われている認識対象となる自己ということであり、われわれが、一般的に言う「自己」とは、この問うている認識主体の側としての自己であるということである。
そして、この問うている自己と問われている自己とは、一見すると、別のものであるように感じられるが、実は、この二者は、より厳密に考察するなら、同一のものであるということが明らかになるのである。その証拠に、人間の問うている自己は、問われている自己そのものの中にあるからである。
このように、問うている自己が問われている自己と同一であるという観点からすれば、人間の自己にとって、問われている自己が、問うている自己そのものを捉えることは困難である、ということになる。
より具体的に言えば、「私」が「私」を問うこと、あるいは、「私」が「私」を分析するということは、論理的に不可能である、ということである。それは、人間の目が目を見ることができないのと同じである。
それでは、人間の「自己」というものが、実体的には捉えなれないものであるとするなら、現象的に、人間の「自己」とは一体、何であるのだろうか?
人間における「自己」とは、究極に言うと、意識である。そして、そのことを、より明確に言うなら、人間の「自己」とは、人間の機能であるということになる。これについては、後で述べるが、人間の「自己」が意識であるということは、人間の「自己」とは、すなわち自己意識ということになり、その「自己」とは、「自我」であるということを意味するのである。
そして、これらのことによって、人間においての「自我」とは、人間の精神的平穏を維持するところの、換言すれば、意識としての人間の存在そのものを保つところの根幹であるということが、明らかになるのである。
しかし、私が、ここでなぜ、このような甚だ理屈がましいことを述べるのかと言えば、人間の「自我」というものが、われわれ人間にとって、根本的かつ重大な意味をもつ理由により、これらを取り巻く、多くのことがらを究明する必要がある、ということなのである。
要約すれば、無意識的な、人間の「自我」の安定化の試みと、人間が対他的に自己の存在を確認する行為とは、同義語であるということである。
そして、人間においての「自己」たる意識とは、何らかの実体であるのではなく、実は、人間の「自我」とは、「真理」という観念に、強く拠りかかり深く関係しているということを、われわれは見逃してはならないのである。
都内のある寺の住職より譲って頂いた、第3の目cd
これを使用し仏眼を身に付けたようである。
私も早速使用したのであるが、まず最初に驚いたのが、瞑目時に大きな車輪が回転したり
あるいは、光の渦が螺旋状に見えるのである。
これは何を意味するのであろうか
我々の宗派では、このような神秘的な修行は行わない。
このcdを使用すると、簡単に誰しもが大きな功徳を教授し、霊眼が開眼するようである。
霊眼とは、特別な人間に与えられたものであると今まで認識していたのであるが
本来誰にでも備わっているようである。
宗派によって、これほど修行に違いがあるのは、実に驚きで ある。
販売元は、このブログで紹介されていました。
「なぜ自分だけが生き残ったのか。」
「なぜ原発事故に翻弄されなければならないのか。」
東日本大震災によって生じた、数々の言い知れぬ苦しみ。その苦しみを少しでも和らげたいと、奈良・薬師寺は去年3月から寺をあげて被災地を巡ることにした。
僧侶たちが携えたのは「般若心経」。仮設住宅の集会所などに出向いて仏の教えを説き、「写経」を勧める。苦しみを抱える人々に、これからの生き方を見つめ直してもらうのがねらいだ。
被災地へ足しげく通う中で、薬師寺の僧侶たちは壁にぶつかる。遺族の苦しみに触れ、これまで説いてきた仏の教えを突きつけることに戸惑いを覚えるようになった者。
そして、被災地のすさまじい光景を目の当たりにしたとき、身勝手な自分に気づかされ、仏に仕える資格はあるのかと自己嫌悪に陥った者。それでも僧侶たちは、みずからの存在意義をかけて被災地に立ち続けた。
家族や家を失い、苦しみのただ中にある人々に対して、直接被災しなかった者たちが語りかけるべき言葉はあるのか。薬師寺僧侶たちの1年におよぶ模索を通じて考える。
たまたまテレビを付けたら放送されていたのだが・・・
非常に考えさせれれる内容である。
我々僧侶、仏教は被災地では無力なのか
仏法に力などあるのであろうか
私どもの宗派では、霊の話などはタブーである。
であるが、お檀家さんから霊についての質問も時々ある事は確かであるが
正直対応に困っているのが現状である。
僧侶は誰しも霊感というものがあると思っていらっしゃる方もおられる。
そんな中で、ある僧侶を紹介されたのである。
輪宝氏という真言の僧侶である。
その僧は、誠の心霊力を兼ね備えているとの事であるが、にわかに信じがたいのであったが
お会いして、実に驚いたのである。
私の過去の因縁などを悉く読み解いたのである。
どの様にその様な仏法の力を手にしたのであろうか