この3~4年は個人的なネガティブなこと(トラウマに関すること)をよく書いている。

コメントのやりとりを何度もして、私の人となりをある程度ご存知の方はともかく、そうでない方は嫌な気分になるだろう。そういう文章をきちんと読んでくださる方は多くない気がする。

コメント等のリアクションのある方はごく少数。他人の暗部に立ち入りにくいということもあるのだろう。

 

ネガティブ発言はダメで、ポジティブ発言をする人は立派だという風潮があるが、雰囲気やノリでポジティブ発言をする人をよく見かける。誰かの受け売りの聞き古した軽いポジティブ発言は心に響かない。

誰しもネガティブなことを隠しているだけで、みんな悩んでいて辛いんだという意見もあるだろうが、軽いポジティブ発言をする人の状況や背景をよくよく見ていくと、それほど辛い状況じゃないことは、なんとなく察しが付く。

ノリで言うポジティブは、時として不快になる。自覚がなくとも、他人事として無責任に発言している。

 

言葉尻を捕らえて、表面だけを見て「ポジティブ発言は良い」、「ネガティブ発言は悪い」と決めつけるんじゃなく、その人の事情や背景を考慮した奥行きのある見方が、本当の意味での「読解力」だと思う。
ある人がネガティブなことを言った時、そんな部分をも包み込んで正しく理解して、その上で助言したり寄り添ったりするのが愛じゃないかな?

 

 

ネガティブ思考はマイナスでしかないのか?

 

「ポジティブ思考はいいけど、ネガティブ思考は良くない」というのは短絡的ではないか。

発言した時々を単体で切り取ったらマイナスかもしれないが、長い目で見たら、それがポジティブに転じることもある。

「逆境」という言葉が使われる文を見れば、ネガティブが起爆剤となって、強いポジティブに転じることが分かる。

地に足がつかないポジティブより、くるぶしまで土に埋まったネガティブの方が、考えること、自分を見つめることが多いんじゃないかと思う。「足元をすくわれる」というのは、ネガティブ思考ではあり得ない、ポジティブ思考ゆえに起こる。

ネガティブ思考には、本能レベルで起こるものと、顕在意識で起こるものがあり、それらを全否定することはできない。

以下にそれらを挙げてみる。

 

1)動物には種を保存する(子孫を残す)ための防衛本能があり、警戒心や縄張り意識が強い。生き抜くため、本能的にネガティブ思考がある。

人間の場合も、「自分を守りたい・生きたい」という無意識(潜在意識)があって、不安と恐怖のネガティブ思考が生じるのではないかと思う。

顕在意識では、私のようにネガティブ思考のために生き辛く希死念慮があっても、おそらく潜在的には「生きたい」と望んでいるのだろう。

「生きたい」と無意識に望んでいるのなら、それで生じるネガティブ思考は、悪いことだと断定できないのではないだろうか。

本能は、肉体をまとってこの世を生きる者に課せられたプログラムで、是非はない。

 

2)人間レベルのネガティブ思考は、本能以外にも、過去に経験した記憶が原因となっているものがある。そのなかで強烈なものをトラウマという。こちらのネガティブは、程度に個人差がある。これが一般的に言われるネガティブ思考だろう。

ゼロでもダメだし、普通に生きれないほど強すぎてもダメで(トラウマ)、適正値であることが重要となる。ゼロだと、「逆境をバネにして」というのが成立しない。ネガティブは適度だと頑張るモチベーションになる。しかし、強すぎると生きる気力がそがれていく。

 

人生の問題にかかわるトラウマが消えない限り、それに起因するネガティブ思考は無くならない。そして、その過去の記憶に手を付けなければ、人生の問題の根本解決は不可能である。

 

私がブログで、いい大人が言うようなことじゃないトラウマに関する過去の出来事を詳らかにするのは、解決のために何とかしたいと思うからで、その一環として、思いを吐き出したり反芻したりでネガティブな発言をしている。

「ネガティブ発言はマイナス」という固定観念からくる思考停止状態では、心の機微が分からないし、物事の本質を見抜くことはできない。

 

2019年5月25日

 

 

キンセンカ

※画像は拝借しました