尾崎豊の曲に、「自由って一体、なんだい?」って歌詞がありますが、自由という言葉は、福沢諭吉が「freedom」を「自らを由(よし)とする」と翻訳したのが語源だと、昔、聞きました。

「自由」は「愛」と同じぐらい、意味合いやニュアンス、その根拠が様々で、「自分が考える自由とはどういう状態か?」と尋ねると、その人の価値観が反映した、色々な「自由」があるでしょう。

例えば、仕事をしなくて済むことが自由だと答える人もいれば、1人になることが自由だと答える人もいるでしょう。

 

僕にとっての自由とは、仕事などの課せられたことで忙しいかどうかという、身体的な拘束よりも、精神的な拘束がないことの方が、自由かどうかの尺度となっています。

ですので、単に「仕事で忙しいから自由ではない」とは考えません。忙しいかどうかと、心が自由かどうかとは、次元の異なる話だという考えです。逆に言えば、暇だからといって、その人が自由だとは限らないということです。

「かごの中の鳥」という例えがあるように…。

 

自由は、「自己責任」が伴っていることが絶対条件です。自己責任を負うことなしに、自由を得ることはできません。世の中にはルールがあるからです。法律用語でいう「公共の福祉」です。

この「ルール」は本来、明文化された法律や条例にとどまらず、人々が共存していくのに大切な「暗黙の了解」も含まれていますが、近年、モラルの低下が叫ばれていることからも分かるように、この「暗黙の了解」が破られてきています。

いじめなど、今ある社会問題の多くは、暗黙の了解が破られたことに起因しているのではないでしょうか。「自由」と「何でもアリ」とは違います。

 

僕自身が自由になるために必要なことは、心を縛り付けている観念から己を解放することです。

なんでもかんでも好き勝手にすることではなく、心が自由になったと感じられる状態で、やるべきことを惜しまずにすることです。

そのためには、物質的なものが必要なのではなく、精神的な救済が必要です。

このことを考える度に、「おかげさま」という言葉が浮かびます。

人は1人では生きてゆけないことを思い知らされます。