わかりましたよ。観ますよ。
( ;`Д´)


なぜこんなやけくそ気味なテンションになったかというと、それはもう今や押しも押されぬポップアイコンと化した「鬼滅の刃」が原因。


元来ひねくれ者であるため、正直ここまで話題&人気になると「けっ!」と唾を吐きたくなるめんどくさい自分がいるというか。


よしんば...よしんばですよ?結局観たところで、「楽しかった!」「素晴らしかった!」「感動した!」という感想以外は許さないという、「共感ヤクザ」に怯えてしまい、積極的には観たくない気持ちでした。


それでも、やっぱりここまで老若男女を巻き込んだムーブメントってなかなか無いし、そのリアルタイムに生きる者として劇場に足を運んでおくということは意義があることだとも思いましてね...


というわけで、原作を読む時間はとれなそうなので、とりあえず今週から妻と一緒にテレビアニメ版を鑑賞し始め、昨日で第19話「ヒノカミ」まで観終わりました。




あらすじ
大正時代の日本。竈門炭治郎は家族を鬼に殺され、唯一生き残った妹・禰豆子も鬼に変えられてしまう。炭治郎は禰豆子を人間に戻し、家族の仇を討つため、「鬼狩り」の道を歩むことになるが...





なかなかいいんじゃあないか?
(康一くん風)


「ジョジョの奇妙な冒険 第四部」より。


そりゃあこれだけたくさんの人がおもしろいと言っているんだから「少なくともつまらないってことはないだろう。」とかなりハードルを低くして鑑賞したことを差し引いても、かなり楽しんで観れたことは間違いないです。もちろんまだ途中ではありますが。


本作がヒットした要因として、多分にフィクショナルな世界観を成立させるためのリアリティの置き所が明確だったことは非常に大きいと思います。


「人間」「鬼」が戦うというファンタジー世界でありながら、そこには現実と同じように悲惨で残酷な「死」が確実に存在するということが明確に示されることで、登場人物が抱える葛藤が、より実在感があるものとして描かれています。


「人間」vs「鬼」の分かりやすい対立構造でありながら、決してそれが善悪二元論に陥っておらず、かなりグレーな印象を与える作風がすごく好感が持てるというか。大多数の方、特に子供にまでこの作品が支持されているというのは、僕は極めて健全だと思います。




王道少年マンガとしての魅力、もっと言えばキャラクターの魅力もちゃんとあって。


主人公・炭治郎の、他人をどんどん巻き込んでいくほどの度を越した良いヤツぶりはかなり強烈で。


鬼化した妹・禰豆子(正しい漢字変換ができない!)を必死で守ろうとする姿はストレートに感動するんですが、時折垣間見える「度を越した善意」に、ちょっと狂気すら感じるというか。


伊之助を諭す時の、もはや善意を通り越してほとんど無神経とも言える発言には、「この子、怖い...」と思いつつもけっこう楽しんじゃったり。


ちなみに炭治郎の「炭治郎頑張れ!」のセリフは、「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」のオマージュというのは僕の妄想です。







伊之助が僕は好きで。


自らの「最強」を疑わない自信家なんだけど、炭治郎に対して「お前にできることは俺にだってできるんだからな!」というような発言からもわかるように、常に他者に対する劣等感・不信感に苛まれている人物でもあります。


どこを切っても「自分」しかなかった伊之助が、他者に貢献することで成長していくというのも、ベタですが、ベタだからこそ燃えるキャラクター。今後が楽しみです。


伊之助の性格や発言含め、僕はちょっと「スラムダンク」桜木花道っぽいなーなんて思いました。




非常にイイ味を出す善逸くん。(康一くんと同様、なぜか「くん」付けで呼びたくなる。)


彼もまたすごくベタなんだけど、だからこそアガルし燃えるキャラクターで。


めちゃくちゃネガティブ自己肯定感ゼロ。ほとんどコメディリリーフとしてのキャラなんだけど、ギリギリまで追い詰められる一撃必殺の抜刀術を繰り出す最強剣士に変貌。


こういう「ナメてたヤツが実は...」っていうキャラは昔からみんな大好きじゃないですか。


例えば「水戸黄門」(ナメてた老人が実は先の副将軍)、「暴れん坊将軍」(ナメてた旗本の三男坊が実は将軍)、「座頭市」(ナメてた盲目の侠客が実は居合の達人)などなど。


それに「抜刀術」の使い手ということを絡めて考えると、「るろうに剣心」緋村剣心(ナメてたナヨナヨ男が実は伝説の人斬り)を思い出さずにはいられません。


さらに善逸を特別なキャラクターにしている要素として、善逸が「実は強い」という事実を知っているのが視聴者だけであるということが非常に大きいと思います。


各キャラクターそれぞれが感情移入できる魅力を持っていることは確かですが、彼らはあくまでも「鬼滅の刃」という世界の中で、登場人物どうしの間においてのみ関係性を結んでいるわけです。


善逸が特別なのは、彼が唯一、視聴者と関係性を結んでいるキャラクターであるからだと思います。


他のキャラクターや、善逸本人ですら気がついていない秘密を観客だけが理解しているわけですから、視聴者と善逸の間にテレビ画面を通した見えない線が引かれて、多くの方にとっての「自分だけのキャラクター」になりやすいというか。彼のメソメソしながらも恐怖に立ち向かっていく姿も含め、一番感情移入しやすいキャラクターだと思います。


それから善逸がやたらと女性に執着するのは、彼が人一倍「死」を恐れていることの反動(「死」に対する「セックス」)なのかなぁなんて考えたり。


ちょっとだけ気になったのが、善逸の能力に本人も気がついていないということで。


なんて言うか、相手が鬼だから良いかもしれませんが、「自分がやったことを覚えていない」っていうのは、裏を返せば「自分がやったことに責任を負わない」ということにもなるんじゃないかと。


今後どうなるかまだわかりませんが、善逸にとってその能力が仇となるような展開があればなぁと期待したくなりました。





ラスボスの鬼舞辻無惨はその能力含めやっぱり「ジョジョの奇妙な冒険」DIOっぽいんですけど、個人的には見た目が「アンタッチャブル」ビリー・ドラゴに見えたというのはだれも賛同してくれなそうですね...



帽子だけですね...ごめんなさい...


炭治郎や善逸が「匂い」「音」敏感なのは、「他者への共感能力の高さ」カリカチュアライズして描いているというこのなのかしらん?この辺も興味深いところ。


それから手書きCGが入りまじったような、流れるようなアクションシーンかなり見ごたえがあったし、特に19話「ヒノカミ」での明らかに力の入り方が違う戦闘描写には手に汗握って興奮して。


テレビの前で妻と一緒にヒノカミ神楽わっしょいわっしょい状態(?)でしたし、亡き母の幻影を見た禰豆子が覚醒して、血鬼術・爆血を発動した日には、


僕と妻の心臓もバッケツ!バッケツ!(バカ)



それから蜘蛛鬼一家の、「糸」で人間を操りながらも、彼らもまた家族の「絆という糸」に操られているという皮肉さもよかったです。(頭から足が生えた蜘蛛鬼は「遊星からの物体X」のオマージュ?)




というわけで想像以上に楽しめたんですけど、ちょっとだけ文句というか、今後の不安を書いておくと、


やっぱりマンガ原作に忠実というのは、ファンにとってはうれしいのかもしれませんが、ちょっと説明過多になりすぎなんじゃないかと。敵と戦ってる最中にベラベラ喋り出されると、「この時間敵は待ってくれてるの?」って思うし...


心情やらなにから全部セリフで説明されると話のテンポも悪くなるし、お茶の間のテレビで家族揃って観る分にはいいですが、劇場で観ることを考えるとキツイのでは?


あと、「鬼も元は人間であったのだ」という視点は、それこそジョージ・A・ロメロ「ゾンビ」でも示されていたことで非常に好感が持てるんですが、鬼が元はかわいそうなヤツとか、元はいいヤツみたいな方向に描かれ過ぎな気もして。炭治郎に倒された鬼が感謝しちゃうみたいなバランスだとちょっとくどい感じがしました。


それから炭治郎の、「おれは長男だから~」「次男だったら~」というセリフには笑いつつも、現代的な価値観からするとどうなんだ?とは思って。大人が観る分には「そういう時代だから...」で済ませられるかもしれませんが、子供も観るからには大人からのフォローは必要かと。グロさうんぬんではなく、そういう古い価値観に対して劇場版の映倫がPG-12だというなら納得。




まあ何はともあれ、劇場版が楽しみです!

たぶん今日、明日でアニメ版は観終わりますので。今週末にでもIMAXに行けたらな~と思っております。





ではまた。