私は何と微力なのだろうと思います。

けれど、無力だなどとは決して言わない、と心に決めました。

そんなお話です。



地震が起きてから半年が経ちました。

被災地とその他の土地との温度差とか、色々と思うことはありますが、過去と他人は変えられないが未来と自分は変えられるって『あまんちゅ!』の火鳥先生もおっしゃっているので、そういうのは抜きにして。

自分のことだけ書きます。


私はあの地震で、大事な家族を失う可能性がありました。

こう書くと誤解を生みそうなので補足しますが、その当人は結局五体満足でぴんぴんしており、生命の危機や具体的な危険があったということはありません。

ですが、運が悪ければ、そういう可能性があった、ということです。


一方私はと言えば、当日強い揺れに翻弄されたのと歩いて家まで帰らなくてはならなかった位で、肉体面に関しては何の問題もなく日々を過ごすことが出来ました。

ですが、精神面で言えば、先の「家族」と4、5日程連絡がとれず気を揉みました。


私も私の家族も無事でした。
しかし、それは偶然無事だったということでしかないのだと、報道を、或いはネットの情報を目にする度に感じました。
死んでてもおかしくなかった、と。



多分、震災の事だけではないと思うのです。

今日は同時テロから丸10年という日です。

また、最近では台風が最悪の被害をもたらしました。


3月11日を経た今なら分かります。

世界で起こる様々なことが、他人事ではないのだと。

地球の裏側で誰かの胸を貫いた銃弾は、ちょっとした違いで私の命を奪っていたかも知れない。

大げさな例えだとは思います。

でも、世界で起きていることは、そういうことなのだと今は思うのです。



偶然生きている自分って何なのか。

ただ生きているだけで良いのか、よく分からなくなりました。



自分に何が出来るのか。

何度も思いました。

しかし結局、私は何もしませんでした。

何もしなかったのです。

無力だと思ったから。


来てくれただけで嬉しい、力が出る、そんな人が居ます。

ミュージシャンや、アスリートや、皇族の方々や。

力を与えられる人は、居ます。


私は違います。

そのような方達と違って、ワンアクションで誰かに力をあげることは出来ません。

だから、間違えちゃいけない。

一足飛びで何かが出来ると勘違いしてはいけない。

物資を運んだり、瓦礫を片付けたり、地道な作業を現地で行うことと同じレベルの貢献を、遠く離れた安全な場所からすることは多分出来ません。


でも、本当は「微力」なんです。

何も出来ないというのは嘘であり放棄なのだと。

僅かですが、出来ることはちゃんとある。

今すぐとか、大きな力になるとか、そういうのは難しいですが、ゼロではない。

そう思っています。

貢献という言葉には遙か遠く及びませんが、何もしなかった私は、それでもやらないといけない。


そして、小さいことを始めました。

本当に小さいことで、ここに書くことではありません。

でも、始めました。

そして、続けようと思いました。



まだ、何も終わっていません。

けれど、当たり前のように動くエスカレーターを見ていると、忘れてしまいそうになります。

凄く怖いことだと思います。

未だ苦しんでいる方々が大勢いるのに、昔のことだと、過去の話だと感じてしまうことが、恐ろしいです。


忘れない為に。

私は、私に出来ることを続けようと思います。



そんなことを思いながら、私は半年を過ごしました。

何一つ胸を張れることはありません。


私はなんて微力なのだろうと思います。

でも、自分は無力だ、とは二度と思わない。

あれから半年経ち、改めて誓います。