ただ、かまんかしやうか わるきことにて候

又は、かまんなくても ならぬ道也

3)銘道二いわく

   心の師とハなれ、 心を師とせされ

  と古人もいわれし也

心の文の現代語訳を お読みになりたい方は、 令和3年8月21日投稿の わび茶の祖・・・村田珠光(3)をご確認ください

 

珠光は 心の文の冒頭で「 茶道の修行において妨げになるのは、自惚れて 自分の考えに執着することだ」と述べていますが、 終盤では 「自らを秀でた存在であると信じられなければ 成就できない道だ」 とも述べています。  


矛盾する内容ながら 「やればできる」 と 思い込まなければ、 出来ることも 出来なくなってしまうのは 世の常。


珠光は この一見相容れないハードルをこえる根拠を、 浄土思想に見いだしました。  

 

熊倉功先生の 茶の湯の歴史 千利休まで によれば

 

願わくは 心の師となり、 心を師とせず、身口意業 (しんくいごう)、悪と交わらず、能く一切衆生に安楽を施す

 

と大般涅槃経の第26巻にあるのだとか。 

 

それを 恵心僧都(えしんそうず)が往生要集で読みくだき、 そこから 更に引用したのが珠光 と考えるのが妥当なのだそうです。 

 

珠光が11歳~20歳までを過ごしたといわれる 奈良県 称名寺

 

 


心の師とハなれ、 心を師とせされ  (心の趣くままに振る舞うのではなく、自分の心をコントロールできるようになりなさい)・・・これこそが、 古市播磨 に宛てた手紙が 心の文 と呼ばれる所以となった 大切な言葉です。 

 

現在に至るまで、 茶道が 心 に重きを置いてきたことを象徴的に表している 一文でもありますが、 出典が何であれ、 また、 茶道に関わりがあっても なくても、 記憶に留めておきたい名文です。