茶花は 軸と共に床に無くてはならないものです。

 

何年か前、家元で且座の稽古がありました。  午前中が講義、午後から実技 だったのですが、午前の講義の時に 指導に当たられた宗匠が 「今日の且座で 花を誰が生けるのか知りませんが、 花は亭主の心を映すものです。  生ける方の 心を楽しみにしています。」 とおっしゃいました。    

 

「ギク・・・それは私です・・・この場面で 何たる意地の悪いご発言・・・心を見せよ とは」  

 

心臓の鼓動が急に速くなって、 午後の実技では 花がうまくおさまらずに冷汗もので 「気の弱さが出た」 と内心 恥入りました。 

 

 

茶花は 「 野にあるように 生けよ」 といわれます。  そこが生け花とは違うところで、 技巧は必要としません。  

小原流の華道を10年ほど学んだ私は、 お茶を習い始めたばかりの頃、 そこで学んだ技術が邪魔をして 花を野にあるように見ることができませんでした。 

 

「うまく生けよう」 「よく見せよう」 という心が どうしても花に乗り移ってしまうのです。  

枝や葉に 無理をさせてでも 我が意のままに お客様の方を向かせようとしてみたり、 花入れの中で見えない部分は 針金やテープで固定して 力ずくで花の自由を奪ってみたり。  

他人様のお茶席に伺って 綺麗な花を拝見したときには 「上手いなァ・・・あんな風に生けられるようになりたい」 と思うことも しばしば。  そんな考えは ある種の邪念で 我執に通じるものではないのかしら・・・という思いが強くなったのは つい最近で、 あるお茶席に伺ってからのことです。


  

そこには  なんの変哲もない竹筒に 4輪の秋明菊が 無造作に生けられていました。  

たとえ切り取られても 花入の中で自由を獲得し、 自らの命を伸びやかに誇る姿を見たような気がしました。

 

「上手い」 とは 露程も思いませんでしたが、 茶室でありながら 花の間をすり抜けてくる静かな風の流れを 肌が感じて 「ウーン いいなぁ」 と思いました。  

「これが 野にあるようにか・・・」 と。   

 

我執も慢心も感じさせない 肩の力が抜けた花は どうすれば生けられるようになるのでしょう・・・それを考えることこそが 最早 我執や慢心で、 茶花の本意から外れているのでしょうか。   

 

禅問答のような自問自答が続きます。