入間市議会議員 細田智也のつぶやき

入間市議会議員 細田智也のつぶやき

政治は優しさでなければならない。
30歳で脳出血を経験し、当たり前が当たり前ではない現実を知りました。
医師の「生かされた命」という言葉を胸に、
声にならない思いを抱える人、暮らしの中にある声を、政治の場につなげていきたい。議会や日常の事柄を綴っています。

何も言わない人を見ると、
私たちはつい、こう考えてしまいます。

関心がないのだろうか。
考えていないのだろうか。
もう諦めてしまったのだろうか。

声を上げない。
意見を言わない。
態度をはっきり示さない。

 

沈黙は、ときに
無関心諦めと同じ意味で
受け取られてしまいます。

けれど、私は最近、
その受け取り方に
少しだけ引っかかっています。


声を荒げる人よりも、
何も言わずに話を聞いている人の方が、
長くその場に残っていることがあります。

すぐに意見を言わない。
簡単に賛成も反対もしない。
ただ、黙って話を聞いている。

 

その沈黙のあいだ、
何も起きていないように見えて、
本当にそうなのだろうかと
考えることがあります。

どう言葉にすればいいのか。
言ったことで、
誰かを傷つけないか。
関係が壊れてしまわないか。

そうしたことを、
頭の中で何度も行き来させながら、
言葉を探している人たちがいます。

 

それでも、外から見ると、
沈黙は「何もしていない」状態に見えてしまう。

だからこそ、
沈黙はときに、
無関心諦め
同じ場所に置かれてしまいます...。

もちろん、
すべての沈黙
考え続けている状態だとは言えません。

関心を失っている沈黙もある。
疲れ切ってしまった沈黙もある。
そういう現実も、確かにあります。

 

ただ、
沈黙=無関心
と一括りにしてしまうと、
こぼれ落ちてしまうものがある気がしています。

 

本当は、
声を出したいけれど出せない。
意見はあるけれど、
まだ言葉にならない。

そんな状態の人ほど、
簡単には話し始めません。

沈黙は、
終わりなのか。
それとも、
まだ途中なのか。

その境目が、
私には、どうしても気になっています。

今読んでくださっているみなさんの中にも、

理不尽だと思うことや、
納得できない出来事に出会うことは、
日常の中にいくつもあるかと思います。

本当なら、
怒ってもいいはずの場面。
声を上げても、責められないはずの状況。

 

それでも私は、
怒れないまま立ち止まってしまうことがあります。

「怒るべきだ」
そう思う自分がいる一方で、
どうしても感情が前に出てこない。
その状態に、
自分自身が戸惑ってしまうこともあります。

怒れないのは、
覚悟が足りないからなのか。
優柔不断だからなのか。

あるいは、
逃げているだけなのか。

そんなふうに、
自分を責める気持ちが浮かぶこともありました。

 

議員として多くの方々にお会いする中で、
怒らない人ほど、
多くのことを抱え込んでいる“ひと”に出会います。

声を荒げることもなく、
強い言葉を使うこともなく、
ただ静かに、
その状況を引き受けてしまう人たちです。

 

その“ひと”たちは、
何も感じていないわけではありません。
怒りがないわけでも、
問題に気づいていないわけでもない。

ただ、
怒りを外に出すことで、
関係が壊れてしまうことや、
状況がさらに悪くなることを、
よく知っているだけなのだと思います。

 

怒りは、
ときにとても大切な感情です。
不正や理不尽に気づくための、
重要なサインでもあります。

でも同時に、
怒りは人を消耗させる感情でもあります。
怒り続けることは、
簡単ではありません。

 

だから私は、
怒れない自分を、
すぐに否定しなくてもいいのではないか、
と思うようになりました。

怒れないということは、
何も感じていないということではない。
見ていないということでもない。

むしろ、
状況を複雑なまま受け止めようとしている、
一つの反応(感情)なのかもしれない・・・。

怒ることが正しい場面もある。
でも、
怒れないまま考え続けることにも、
意味があるのではないか。

 

まだ私自身、
答えを出せていません。

ただ、
怒れない自分を責める前に、
その感情が何を守ろうとしているのかを、
考えてみたいなと思っています。

2026年4月、自転車にも「青切符(反則金)」が適用されます
“今まで注意で済んでいた行為” が、知らないうちに違反になる可能性が出てきます。

青切符って何かよく分からない」
「自転車の話だし自分には関係ない」

そう思っていませんか?
でも、これは通勤・通学・日常の買い物など、ほとんどの人に関係する制度です。

 

   自転車も“車両”として扱われる時代に

2026年4月1日から、自転車でも交通違反をしたら青切符(交通反則通告書)が出され、反則金を納める仕組みが始まります。これまでは注意や指導で済んでいた違反も、今後は“違反行為”として反則金が科されるようになります。

 

つまり…

  • 何気なくやっていた行動でも
  • “知らなかった” では済まされない

という大きな転換点です。

 

  なぜ今、この制度が始まるのか?

自転車は便利な乗り物ですが、交通事故の実情は決して軽くありません。
例えば…
自転車関連の事故件数が増えている
歩行者との事故も増加
事故の多くが ルール違反を伴っている
こうした状況から、交通安全の意識を高めるために、青切符制度が導入されることになりました。

 

  身近な行動が“反則金対象”

以下は、代表的な対象行為です(例):

行為 反則金の目安
スマホを持ちながら走る 約12,000円
信号無視 約6,000円
逆走・歩道通行 約6,000円
無灯火(夜) 約5,000円
二人乗り 約3,000円

※実際には100種類以上の行為が対象になると言われています。


  “悪意” は関係ありません

以下のような行動、心あたりありませんか?

✔ 朝の通学途中にスマホで音楽を確認しながら乗る
✔ 家の近くで赤信号を渡ってしまう
✔ 歩道を走る
 夜、ライトを消したまま帰宅

これらは特別なケースではなく、日常で誰でもやってしまいがちな動作です。
しかし、制度が始まればこれらが“違反行為となる可能性”があります。

 

  そのリスク、放置するとどうなる?

青切符が出されると、
✔ 反則金を支払わないと
→ 手続きが進み、最終的には刑事手続きになる可能性
✔ 支払期限を無視すると
→ 逮捕や強制執行のリスク
といった最悪のケースもあり得ます。
“青切符は軽いもの” と思って放置するのはとても危険です。

 

   事故や怪我は、ほんの一瞬で起きる

よくある光景でも…

  • スマホを見ながら横断歩道に進入 → 横から車に気づかない
  • 歩道で歩行者にぶつかりそうになる
  • 夕方ライトなしで横断歩道を渡る

こうしたシーンが、実際の事故やトラブルにつながっています。
自転車は“便利”ですが、同時に“車両”として扱われる意識を持つ必要があります。

 

  伝えたいこと!?

この制度は、
一部の人だけの話ではありません。 

すべての日常の移動に関わる話です。

そして何より…

✔ ルールを知っているだけで大きな事故が防げる

✔ 少しの注意で反則金や事故リスクを避けられる

という事実です。

だからこそ、
「なんとなく聞いたことがある」
ではなく、
“自分ごと” として理解しておくことが大切です。


 

【交通安全教室】
来年から中学生になる仏子小学校の児童が自転車を用いた交通安全教室に参加させていただきました!!

自転車に乗る前の安全点検や歩行者がいた場合、真っ直ぐ走行する練習、定められた箇所でブレーキをかけるなどのコースが用意されました。

寒い中でしたが、西武地区内のボランティアの方々が補助に付いてくれて、地域で子どもたちが安全に通学できるようにという強い想いが感じられました!!




「仕方がない」という言葉を、
私たちは日常の中で、何度も口にしています。

忙しいとき。
余裕がないとき。
これ以上、考え続けられないとき。

 

私自身も、今まで生きてきた中で
この言葉に助けられたことは数えきれないくらいあります。

どうにもならない状況で、
自分を責めすぎないために。
気持ちを切り替えるために。
「仕方がない」は、
とても実用的で、やさしい言葉だと思います。

 

しかし最近、
この言葉が使われる場面に、
少し引っかかりを感じるようになりました。

それは、
「仕方がない」と口にした瞬間に、
考えることまで一緒に終えてしまっていないか、
という感覚です。

本当は困っている。
本当は納得していない。
でも、それ以上言葉にする余裕がなくて、
「仕方がない」で会話を閉じてしまう。

 

「仕方がないので、大丈夫です」
そう言われたとき、
本当に大丈夫なケースは、
実はあまり多くありません。

声を上げない選択をした人ほど、
そのままの状況を引き受け続けることになる。
それが、現場で見えている現実です。

 

もちろん、
すべての問題に答えを出し続けることはできません。
「仕方がない」と受け止めることが、
自分を守る場面も、確かにあります。

それでも、
その言葉を使う前に、
ほんの一瞬だけ立ち止まる余地があってほしいと、
思ってしまいます。

 

これは本当に、
どうにもならないことなのか。
それとも、
考えることを中断するために、
この言葉を使っているだけなのか。

「仕方がない」は、
便利で、
ときに必要な言葉です。

 

でも同時に、
考えることを中断させる力も持っています。

その両面を意識しながら、
この言葉と付き合っていきたいと思っています。

何かを変えるより、
変えないでおく方が安心だと感じる場面は、
日常の中にたくさんあります。

 

失敗しないために。
波風を立てないために。
今は様子を見た方がいい、という判断。

変えない方がいい、と自分に言い聞かせてきた場面は、
私にもたくさんあります。

 

変えないという選択そのものを、
否定したいわけではありません。
慎重さや安定を大切にする感覚は、
多くの人にとって自然なものだと思います。

 

ただ最近、
その「変えない」という言葉が、
あまり考え直されないまま
選ばれているように感じることがあります。

それは本当に、
状況を見極めた上での判断なのでしょうか?


それとも、
失敗することや、責任を負うことへの
怖さが先に立ってはいないでしょうか。

地方議員として現場にいると、
「変えない」という判断の裏側で、
同じ困りごとを抱え続けている人たちに出会います。

 

前例がない。
今は難しい。
様子を見たい。

 

そうした言葉が重なるたびに、
変えなかったことで、
そのまま置かれてしまった生活があることを
考えずにはいられません。

声を上げる余裕がない人ほど、
現状維持の影響を強く受けている。
それが、現場で見えている現実です。

 

もちろん、
すべてを変えればいいとは思っていません。
変えることが、常に正解だとも言えません。

それでも、
「変えない」という選択が、
本当に慎重な判断なのか。


それとも、
考えることを先送りするための言葉に
なっていないか。

私は、その問いを
自分自身にも向け続けていきたいと思っています。

誰かを責めたいわけではありません。
私自身も、
まだ答えを持っているわけではありません。

 

ただ、
「変えない」と決める前に、
一度だけ立ち止まる余地が、
この社会に残っていてほしい。と考えています。

ネットへの掲載が遅くなってしまいましたが、会派活動報告紙です!
衆議院選挙の関係で期間中は新聞折込も制限されており、2月14日(土)にやっと入間市内に新聞折込(毎日新聞・読売新聞一部地域)をさせていただきました!

30年以上、給料は大きく変わっていません。
一方で、食料品や光熱費など、生活に直結する物価は上がり続けています。

現代社会、多くの家庭で
節約は「工夫」ではなく、
生活の前提になっているように感じます。

私自身、節約そのものを否定したいわけではありません。
無駄を減らすことや、やりくりする力は、これからの時代に必要な知恵だとも思っています。

 

ただ、それが
「できて当たり前」
「我慢できて当然」
という空気になっていないだろうか。
そこに、少しだけ引っかかっています

生活が苦しくても、
それを個人の努力や忍耐で引き受け続けることは、本当に私たち自身を守っている選択なのでしょうか。

 

地方議員として現場にいると、
生活が厳しい人ほど、声を上げなくなっていく場面を多く見ます。

「仕方がないので」
「自分が我慢すれば大丈夫です」
そう言って、話を終わらせてしまう人たちです。

 

本来、生活の苦しさをどう分かち合うかは、
個人の工夫だけでなく、
社会全体で考えるべき問いのはずです。

それでもいつの間にか、
「耐えられる人が耐える」
「声を上げない人が我慢する」
そんな前提が、当たり前になっているように感じています。

 

それは決して、無関心だからではなく、
これ以上、波風を立てる余裕がないからだと感じています。

 

これは、誰かを責めたい話ではありません。
私自身も、まだ答えを出せているわけではありません。

ただ、
「節約が美徳」という言葉の奥に、
見えにくくなっているものがないか。
その感覚だけは、手放さずにいたいと思っています。

入間市市民交通安全大会が開催されました。

日頃から地域で交通安全に尽力されている皆さまへの表彰、
そして改めて「命を守る行動」の大切さを確認する時間となりました。

埼玉県では、全国的に見ても交通事故が多い状況が続いています。
特に、
・交差点での出会い頭事故
・歩行者や自転車の事故
・高齢者が関係する事故
は、今も大きな課題です。

交通事故は、
ほんの一瞬の油断
「大丈夫だろう」という思い込み
から起きてしまうことが少なくありません。

だからこそ、
・横断歩道では歩行者優先
・自転車も「車両」であるという意識
・時間と心に、少しの余裕を持つこと

その一つひとつが、
誰かの命を守り、
そして自分自身を守ることにつながります。

交通安全は、特別な人だけのものではなく、
私たち一人ひとりの日常の選択です。

今日をきっかけに、
もう一度、足元と周囲に目を向ける。
そんな意識を、地域全体で共有していけたらと思います。

下記は初めての試みである、子どもたちの受賞ポスターラッピングトラックです!


節分って、豆まきの日。
そう思っている人も多いと思います。

私は、節分を
「鬼を追い出す日」というより、
“気を切り替える日”だと捉えています。

季節の境目。
目に見える景色はまだ冬でも、
空気の奥では、もう春の気配が動き始める。

そういう“流れの変わり目”って、
人の運や心にも影響している気がします。

私自身は目に見えないものを信じているタイプです。
気の流れ、巡り、タイミング。
そして「今は動く時か、整える時か」という感覚。

易も陰陽も、結局はシンプルで、
変化には順番があるということを教えてくれます。

いきなり春にはならない。
でも、確実に春へ向かっている。

節分は、その“切り替わり”を
体で感じるための日なのかもしれません。

豆をまくのも、
ただの行事じゃなくて、
自分の周りの“場”を整える行為だと思っています。

部屋の空気が重いとき。
気持ちが沈みがちなとき。
なぜか物事が噛み合わないとき。

そういう時って、
努力不足とか根性論じゃなくて、
単純に「流れ」が滞っていることもある。

だから、いったん祓う。
区切る。
整える。

節分の豆まきには、
そういう意味がある気がします。

私たちはつい、
目に見える結果だけで焦ってしまう。

「まだ変わらない」
「まだ進んでない」
「自分は遅れている」

でも本当は、
目に見える変化の前に、
目に見えない変化が起きていることが多い。

水面は静かでも、
水の底では流れが変わっている。

節分は、まさにそのタイミング。
“変わり始める前の変化”を信じる日です。

この節分、
大きな決意をしなくていい。
無理に何かを始めなくていい。

ただひとつ、
「手放すもの」を決める。

不安、焦り、比べる癖、
自分を責める言葉。
あるいは、頑固な「こうあるべき」。

豆をまくように、
それを外へ出す。

そして、
「福は内」って、
遠くから持ってくるものじゃなくて、
本当は自分の内側に戻ってくるものだと思っています。

節分は、
未来を変える日というより、
流れを整えて、未来を迎えにいく日

みなさんは今日、
何を祓って、
どんな春を迎えますか?