ゴッドメモリ(「江戸切絵図の記憶」を改題)《二十七》 | 跡部蛮のサブブログ

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また、江戸の古地図を持って町歩きする会(江戸ぶら会)の報告もおこなっていきたいと思います

(前回までのあらすじ)  東亜大学附属病院で脳外科医を務める沢渡麻紀は、ひき逃げに遭ったホームレス患者の担当医。麻紀は身元不明の患者の所持品を頼りに、彼が昭和五十五年に発生した放火事件の被害者・朽木嘉幸であることをつきとめた。そして、嘉幸が所持していた江戸切絵図。その一枚に書かれていた「いつの世か身踏む」という意味が、六阿弥陀詣での参拝順を示す語呂合わせだったことを知った麻紀だが、職場の上司である平岡に襲われて……。



 患者が搬送されて二十七日目。秋分の日でもあるこの日、午後一時に患者の妹・裕子が面会に訪れることになっていた。


 彼が病院に搬送されて初めて肉親の声を聞くのだ。期待は大きくふくらんでいた。


               ※       ※


彼女は少し早めに昼食をとり、病院の中庭を歩いていた。


祝休日は患者への面会時間が平日より長くとられている。


そのためだろうか、中庭にお見舞いを持った人々が大勢行き来していた。


ちょうどそのとき、刑事の斎藤から麻紀の携帯に電話があった。


彼女はベンチに坐って電話をとった。


「ひき逃げ犯の動機……いやまあ、動機というのもおかしいですが、その何というか……事件の顛末がわかったのでお知らせしておこうと思います」

 

 患者をひいたのは夜須家の誰かではないかという彼女の予感ははずれ、それはそれでよかったのだが、ひき逃げ犯は意外にも、より身近な存在――医局主任の平岡忠であった。


 逮捕容疑は公務執行妨害と杏子に対する暴行容疑だったが、警察の取り調べに彼は、朽木嘉幸のひき逃げについても自供したと、あの日の夜、斎藤から連絡を受けていた。


 ただ、そのときには、それ以上の話はわからなかった。


浅草南署へ向かう車の中で麻紀と杏子が聞かされたのは、なぜ警察が平岡をひき逃げ犯の被疑者と踏んでマークしていたかという理由だけであった。


当初、ひき逃げ事件の目撃者はコンビニのアルバイト店員だけだと考えられていたが、現場からすぐ近くのコンビニで、患者と同じくゴミを漁っていたホームレスの男性が猛スピードで走り去る白いセダンタイプの乗用車を目撃していたのである。


車のナンバーまではわからなかったものの、逆に彼は運転する男の顔を覚えていた。


朽木嘉幸は、同じホームレスの男性の証言により、自分をはねた犯人を捕まえてもらうキッカケを得たのである。


さらに皮肉なことが続いた。


ホームレスの証言をもとに似顔絵を作成し、聞きこみに回っていたところ、その似顔絵をみて「東亜大学病院付属病院の平岡先生ではないか」と話した男性がいた。


あの夜、病院へ患者を搬送した救急隊員の一人であった。


彼はなんどか東亜大学付属病院へ患者を運んでおり、救命救急センターへ応援に出ていた平岡の顔を知っていたのだ。


さらに警察が捜査すると、平岡は白いセダンタイプの乗用車を持っていたが、事件の数日後、それをスクラップに出していることがわかったのである。


状況証拠としては十分だが、物証となる車は処分されたあと。


「何しろ、相手は大病院の医局主任という社会的地位のある人物ですからね」と斎藤は麻紀と杏子にこぼしていた。


その話を聞いて麻紀は、患者が搬送されてしばらくたったころ、平岡が「健康のためだ」と称し、車通勤から電車通勤に変えたことを思い出していた。


その理由は、健康管理どころか、実際には証拠隠滅にあったのだが…。


斎藤がいつか「ある事情があってまだ話せない」と麻紀にいったのも、平岡を有力な被疑者と睨みつつ、断定するには至らなかったここと、その被疑者が彼女と同じ職場で勤務しているためであった。


しかし、麻紀が木崎のことを口にしたため、警察は木崎も事件に関わりがあるとみて、二人の行動をマーク。つまりあの日から二人には警察の尾行がついていたのであった。


「どういう事情で平岡さんは、朽木さんをはねたんですか。あれは過失? それとも故意に?」


それが最も聞きたいことであった。斎藤は一呼吸おいてから、


「安心してください。あれは過失です」

 

 といった。


「ただ、皮肉なことがずいぶんと続きましたね。なかでも最も皮肉だったのは、自分のはねた患者が、勤務先の病院に搬送されたことでしょうね」


それはそのとおりだ。


「平岡は、沢渡先生がわたしたち警察の者と密接に連絡を取り合っているのをみて不安に思ったそうです。もしかして先生と警察は自分のことに気づいているのではないかと。刑事事件の犯人によくある被害妄想というやつです。そこで木崎をうまく使ったんです」


「木崎さんを?」


「そうです。彼は先生に物凄いライバル意識を燃やしているそうですね」


「ええまあ」


 ライバル意識というより、嫌悪という表現のほうが近いだろう。


「その木崎に平岡は、“どうやら教授は君より彼女を選んだようだ。主任になるのは彼女のほうが早くなりそうだ”と吹きこんだんです」


 なるほど。それでいつしか、彼が物凄い形相で麻紀を睨めつけていた理由がわかった。


「そして平岡はこうもいった。“彼女は教授と頻繁に連絡を取っているようだ、そして……”」

 

 しばらく電話の声が途切れた。電波の調子が悪いのかと思い、「もしもし」となんどか呼びかけると、


「すいません、ショックを受けないでください。ただ真実はお話ししたほうがいいと思うのでお話しします。平岡は木崎に“彼女は教授と男女の関係にあるはず。彼女の家を盗聴してその証拠を掴め”――と」


「まあ、酷い……」


 自分の味方だと思っていた平岡にそこまで中傷され、ショックを受けないわけにはいかなかった。


 おそらく以前の麻紀ならふさぎこんでいただろう。


 しかし、いまの麻紀はどこかが昔とはちがっていた。

(つづく)




以上は「第二回北区内田康夫ミステリー文学賞」の特別賞受賞作品を改題して加筆改稿したものです(木曜日と土曜日更新の予定)。