その男が東京都板橋区船渡の東亜大学付属病院・救急救命センターに搬送されたとき、心停止には至らなかったものの、すでに意識はなかった。
瞳孔は開き、対光反射に対する反応はなし。
そのことを確認した当直の主任救命医は救急隊員に詳しい説明を求めた。
救急隊員が現場に駆けつけたとき、患者は路上で仰向けに倒れていたという。
通報者――コンビニでアルバイトする大学生だったが――彼の話によると、患者はひき逃げ事件の被害者であるらしかった。
どうやら患者は車にはね上げられ、そのまま後頭部を路面に打ちつけたようだと、救急隊員は説明した。
また、救急隊員は現場で頭部からの多量の出血を確認していた。
したがって、患者の脳全体に血腫が広がっている可能性があった。
まず脳内の血腫を除去する必要がある。
主任救命医はすぐさま初療室で開頭手術を施し、脳内の血腫を取り除いた。
脳の出血を除くと、奇跡的に大きな骨折はなく、肋骨の部分にわずかな亀裂の生じていることはわかったものの、それは大きな問題ではなかった。
ただし、意識障害のレベルを判定するジャパン・コーマ・スケール法で患者は「レベル300」と判定された。
腕を思いきりつねるといった痛みにもまるで反応しないレベルである。このまま意識が戻らない可能性もあった。
そして何より厄介だったのは、患者が身元を証明するものを何一つ所持していないことであった。
病院として、万が一の事態に備えて、早急に患者の親族縁者らへ連絡をとる必要があったからだ。
主任救命医は警察からの連絡を待った。
そして夜が明けるころ、通報者の大学生が患者に消費期限切れの弁当類を渡していたことなどから、男は隅田川ぞいの公園を根城にするホームレスの一人であることは判明した。
しかし、彼はよほど拗ねた性格なのか、それとも浅草に来てまだ日が浅いためだったのか、警察が病院で撮った写真をもって浅草のホームレスの間を聞きこみにまわったものの、彼の名前を知る者すらいなかった。
最悪の場合、患者の身元が判明しない恐れもでてきたのである。
(つづく)
※「第二回北区内田康夫ミステリー文学賞」の特別賞受賞作品を改題して加筆改稿したものです。