●本件は道警と検察庁が数多くの証拠を捏造し、裁判官が捏造証拠を用いて有罪判決を下した。私はこうして犯人に仕立て上げられた。権力犯罪を許していいのか!?

 

 (1)私は前回拙文でも、「中国・ロシア・北朝鮮・イランの侵略から、日本の安全を守り亡国を阻止するために、私たちは命懸けでやらなくてはなりません」「世界は岐路にあります」と主張し、訴えました。だから、私は志を同じくする方と共闘して活動していきたいし、制約が多い私に力を貸していただきたいと思ってきました。私はこの間(2023.11.4アップ拙文以降)、志を同じくされる方に、「共闘して活動していきたいと思っています。ご連絡いただけないでしょうか」「新しいブログ『新・大森勝久評論集その2』を開設して管理人(原稿の入力も)になっていただけないでしょうか」「原稿入力の協力のみだけど共闘していきましょうという方のご連絡もお待ちしています」と、お願いしてきました。しかし、残念ですがご連絡はありませんでした。

 

 ご連絡をためらわれる原因の一つは、私が元反日左翼過激派の死刑確定囚であるからだと思われます。それで、私は1976年3月2日発生の北海道庁爆破事件(午前9時2分の出勤のピークにバッグに収納された消火器爆弾《4号エレベータの北側の壁に平行に設置されていた》が爆発して、道庁職員2名が死亡、81名が負傷したテロ事件。東アジア反日武装戦線から犯行声明文が出る)の犯人ではなく、道警、検察庁、裁判官の憲法違反・法律違反の犯罪によって、道庁爆破の実行犯に仕立て上げられたことを、改めて訴えていくことにしました。

 

 (2)日本人の場合、「法の支配」(憲法の支配)の思想が獲得できていません。国家の権力は、法に支配されて権力を行使しなくてはなりません。これは義務です。それに反するときは権力の犯罪です。訴追されますし、裁判官は弾劾されます。しかし、法の支配の思想がなければ、権力は「お上」ととらえられて、権力=お上のやることが正義と考えてしまいます。つまり、権力を美化し、また権力に従順になってしまいます。日本人の保守派はそうです。これはとても深刻な問題です。これでは素晴らしい日本は作れません。だから、日本の刑事裁判では、捜査機関による証拠の捏造と、裁判所がそれを排除するのではなく利用して、有罪認定することは、しばしばなされています。証拠の捏造は刑法違反です。捏造証拠を使った有罪判決は裁判官の犯罪です。国会における弾劾裁判所で弾劾されます。

 

 「法の支配を守る政府」であれば、政府はとっくの昔に、閣議決定によって本来の憲法9条を支持して、現行の「反日の憲法9条解釈」を違憲で無効と決定して、自衛権行使のための強い国防軍を保持しています!これをすれば、日本はわずが1日で軍隊を持てます!自衛隊を軍隊にできます!しかし、保守派は憲法違反の政府を批判して闘っていくことをしません。法の支配の思想がなく、政府に従順な保守派の“識者”たちなのです。そのために、日本は亡国の危機にあります。政府の誤り、国家安全保障上の政府の誤りは、侵略を抑止できず、国を亡国に追いやることになります。私がおこなってきた言論活動は、日本侵略を考える中国・ロシア・北朝鮮・イランを糾弾すること、これらと連携する日本内部の侵略勢力の反日反米の左翼勢力を糾弾することです。また、法の支配(本来の憲法9条の支配、憲法98条2項1項等の支配)を実行しない誤っている政府への批判と、前記したような誤っている保守派への批判です。もちろん、これは変革を求めるための批判です。私は日本の安全と存立を守り抜き、繁栄した日本を作っていきたいと思っています。

 

 (3)これまでにも書いてきましたが、私は自身を善良なる冤罪者と言ったことなどありません。当時の私は、北海道庁爆破と同じような反日武装闘争(テロル)を志向していた人間です。道庁爆破に使われた混合火薬の主剤の塩素酸ナトリウム(純度98.5%以上の除草剤)の入手はまだでしたが、木炭や硫黄は入手し、トラベルウォッチに工作して時限装置も作っていました。私は道庁爆破の犯人ではありませんが、このように日本に対する侵略者だったのです。もう少し時間があれば、同じような反日テロル(当時は反日武装闘争と称していましたが)を実行していった人間でした。このような意味で、私は有罪存在=侵略者でした。

 

 私は多くの証拠を捏造されたから、初めて逮捕されたのです。そして有罪にされました。それらがなかったら、つまり道警、検察庁、裁判官の犯罪がなかったら、逮捕されず、もちろん有罪にはなっていません。そもそも、8月10日の別件逮捕は「大森は8月7日頃に爆発物製造器具である消火器、セメント、乾電池、豆電球等を所持した」という「爆発物取締罰則第3条違反容疑」でしたが、これは刑罰法規上、どこにも存在しないものです。つまり「不可罰」です。私は憲法違反、刑訴法違反の無効の逮捕状で、苫小牧市のフェリーターミナルで乗船するために車に乗って並んでいるところを逮捕されたのです。当時の私(反日左翼)は、これらに激しく怒っていました。

 

 しかし、反日左翼イデオロギー(共産主義イデオロギー、アナーキズム等)を自己否定して、「法の支配を堅持する自由民主主義者(保守)」に転向してからは(完了は1997年半ば頃)、私は道警、検察庁、裁判官によって自分の完全に誤っている反日テロルを防いでもらったのだ、と考えられるようになったのでした。もし、彼らがおこなった捏造証拠とそれを使ったでっち上げ有罪判決がなかったら、私は地下へ潜行して犯罪的な反日テロルをめざし、そして実行していったはずなのです。だから、権力犯罪ではあったけれども、私個人としては「よかった」と受け容れています。もちろん、これは上記のような条件下においてです。

 

 しかし、警察、検察庁、裁判官は、容疑者、被疑者、被告人がどのような相手であっても、憲法と法律に支配されて行動しなくてはなりません。恣意的に法を破るのでは、善良な市民も逮捕され、有罪にされてしまいます。私のようなケース(「爆発物製造器具の所持」)でも、ちゃんと罪に問えるように法律をしっかり整備しておくべきなのです。そして、現在の私はもう社会にとって危険な存在ではなくなっていますから、「社会防衛」の観点など全く不要ですから、裁判官は憲法と刑訴法に支配された公平な裁判をしなくてはなりません。裁判官はこれまでの証拠の再評価をおこない、捏造証拠を排斥して、事実認定の誤りを認めて、再審開始決定を出さなくてはならないのです。これが私の立場です。

 

 日本においては、かつての私を含めて反日暴力闘争は国民から非難されますので、日本全体にとっては恐ろしい存在では全くありません。はるかに恐ろしい存在は非暴力闘争でなされる反日闘争です。非暴力で戦う反日勢力は国会にも日本共産党をはじめ多くいるし、大学人や左翼マスメディアにも山ほどいます。彼らは国民の一定割合を洗脳して浸透しており、日本にとって極めて恐ろしい内なる侵略勢力=有罪存在です。しかし、日本政府は彼らと全く闘っていないばかりか、彼ら反日勢力に規制されてしまっています。国家安全保障政策を見れば明白です。

 

 大切なのは、過去の生き方、戦いの自己批判と克服の上になされる今現在の生き方であり、活動・闘いです。私の言論活動は、日本を救うために必要なことを主張していると思っています。あなたはどう思われるのでしょうか?

 

●目撃証人藤井昭作が見たA男B男の2人連れは犯人ではない。本件爆発物の設置はそれよりも20分以上後である。道警はA男B男を探し出して無関係だと知っている

 

 (1)藤井昭作の4月10日付調書の内容。

 

 根室市在住の会社役員藤井昭作は、仕事で札幌に出張していました。3月2日の朝、泊まっていた道庁の北隣の自治会館を8時25分頃に出て、帰りの飛行機のチケットを買うために散歩がてら、道庁の西の歩道を南へ向かって歩いていくときに、道庁構内の駐車場になっている所を北側に沿って自分の方に向かって歩いてくる2人連れの男を見ました。男たちは並んで歩いており、南へ方向転換して、石塀を隔てて藤井と平行して南へ向かって少し前を歩いていきました。両者の距離は10メートルくらいです。藤井の歩行が少し速く、真横になりました。手前のA男はメガネをしており、向こう側のB男は白っぽい大きな紙袋を左手に下げていました。2人は男同士なのにぴったりくっついて、何やらしゃべりながら歩いていました。そのうち2人は向きを変えて藤井に背を向けて、道庁西玄関から中へ入って行きました。その後姿を見たときに、A男が左脇にバッグを抱えているのが目に入りました。バッグの形はわからないが、バッグの色はA男のグレーのコートの色のあせたような色で、布製でした。藤井はそのまま南進して道庁の南隣りにある道警本部の玄関前を越した先まで行ったところで、方向を間違えたことに気づいて、引き返していったのです。道庁の前まで来たときに、先の2人連れが西玄関から並んで出てくるのを見ました。2人の服装と人相は前と全く同じでしたが、A男はバッグを持っておらず、B男は紙袋を持っていませんでした。藤井は西門のところで、2人が南へ向かうのとばったり会った状態になり、藤井はその左側をすれ違って北へ向かいました。すれ違うときにB男が自分をジロッと睨むようにしていったのが印象に残っています。―これが、藤井が4月10日に遠藤英人警部に述べた内容です。

 

 (2)4月10日付調書には、A男の身長、体格、顔の形、頬の感じ、頭髪の型、長さ、メガネのフレームの色、コートの色が書かれています。B男についても同様に書かれています。A男は私とは全く別類型に属する男なのです。この日にA男とB男の似顔絵をそれが専門の警察官の渋木摩早子が描いていますが、A男は一見して私と別人です。藤井は「Aの身長を168センチの自分と同じくらいかやや大きめだったので、168、69センチ」と供述しました。しかし私は174.2センチで藤井よりも6.2センチも高いのです。藤井はAの体格を「きゃしゃな体格」としましたが、私はがっちりした体格です。当時の新聞もそう報じていました。またAは「きゃしゃな角顔」「ほほがこけている」と供述。私は全く異なります。しかし裁判官は全てを無視したのでした!そして後述しますが、裁判官は藤井の嘘証言に基づいて、A男を大森だとでっち上げ認定していったのです。

 

 (3)A男B男が道庁に入り出てきた時間と、本件爆発物の設置時間について述べます。

 

 一審判決は2人連れは8時20分過ぎ頃に本件爆発物を設置した。道庁内に2分間いたと認定しましたが、二審判決はこれを変更して、2人連れは8時30分から40分の間に出入りした可能性が高い。中に2分間いたと認定しました。しかし、藤井の4月10日付調書等から考えて、2人連れが道庁内にいた時間はもっと長くて5分5秒くらいになります。2人は8時27分50秒くらいに道庁西玄関から入り、5分5秒くらい後の8時32分55秒くらいに西玄関から出ていったとなりそうです。もし横断歩道を渡るときに信号待ちがなかったとすれば、1分間くらい早くなります。

 

 しかし、この時間帯は3500人いる道庁職員の出勤時間のピークが始まるずっと前です。ポツポツとごく少数が出てくるだけですから、そんな時間帯に4号エレベータ横の壁の前に本件バッグを設置すれば、すぐに不審物として守衛に知らされてしまいます。道庁の始業時間は9時です。守衛長山木勇は一審93回公判で、「となりの道警がやられたとき〔75年7月19日〕、道庁も狙われるおそれがあるから警戒するようにと、上司から注意をうけてました」「道庁職員に廊下とかホールには一切物を置かせないように注意していました」「外来者が廊下等に荷物を置いていたとき、それを発見した道庁職員が不審物として守衛に通報してくることもしばしばありました」と証言しています。道庁は南北に長い長方体です。東西の玄関から1階玄関ホールに入りますが、玄関ホールの南側の真ん中にエレベーターホールが南方向に入り込む形で造られています。西側エレベーターは南から北に向かって1号から4号があり、東側エレベーターは南から北に向かって5号から8号があります。

 

 始業時間は9時なので、道庁職員の「広い意味での出勤のピークが始まる時間」は8時50分くらいからです。そして段々と混んできて、「ピークは9時過ぎころから」です。道庁職員大原公子は、「普段の自分の出勤は9時過ぎである」と言い、「出勤のピーク時は9時頃からだと思います」と95回で証言しています。本件バッグ(中に消火器弾)を見た道庁職員は、石沢徳四郎一人だけでした。彼は9時を回ってから東玄関から出勤してきたのですが、エレベーターホールはエレベーター待ちをしている者が多くいたのですが、2、3歩あるく間に本件バッグを目撃したのでした。彼は被害者の一人です。爆発時刻は9時2分です。本件バッグには、不審物ではなく持ち主がそばにいて、ちょっと下に置いているものだと思わせるために、バッグのポケットに日経新聞が20センチくらい見えるように差し込まれていました。

 

 犯人は多く出勤してくる道庁職員にまぎれて道庁に入り、人々に交じってエレベーターを待つふりをして4号エレベーターの横の壁にくっつけるようにしてバッグを置いて、すぐに立ち去ったと考えらるのが合理的です。犯人は8時57分少し前に道庁に入り、バッグを置いて直ぐに立ち去ったと考えられます。時限装置は誤差を考えても、プラスマイナス各30秒程度です。爆発が起こったときに、大きな音も発生するでしょうから、道庁から怪しまれない距離まで離れていることが必要になるでしょう。5分間あれば、1分60メートルの歩速として300メートル離れられることになります。街の中心部ですので十分な距離です。この位の時間に設定されれば、バッグの目撃者が一人だけだったのもわかります。しかも、みんなエレベーターのインジケーターに注目していますし。

 

 A男B男が犯人ではありえないことは明白です。もしも、前述したように8時32分55秒直前に4号エレベーター横に設置したならば、それこそ100人を超える道庁職員が目撃したでしょう。その前に守衛に通報されています。それに、B男が提げていた白っぽい大きな紙袋は爆発現場にはありませんでしたから、この点も合わせて、2人は全く犯人ではありません。藤井昭作が「A男は大森に非常によく似ている」と証言したのも、もちろん私の逮捕後に道警と検察官が誘導と強要をしたものなのです。

 

 なお、道警は事件から3週間後に、1階エレベーターホールはまだ使用できないので、地下1階のエレベーター前にバッグを置いて、出勤してくる道庁職員のどれくらいがバッグに気づくか実験をしたことがあります。午前9時少し前、5分くらい前の時間帯で、150人に1人が目撃したのでした。一審91回92回の石原啓次警視の証言。彼はそれ以外の時間帯については何も明らかにしていませんでしたから、道警も犯人はその頃の時間帯に設置したと考えていたことを物語る証言です。

 

 (4)道庁職員真田高司の証言。彼は本件バッグとは全く別のバッグを8時40分頃に見ています。

 

 真田が所属する建築指導課は、3月2日に隣の自治会館で講習会があるため、課員12、3人は早く出勤して講習会で使うテキストを15冊づつ束ねる作業をしました。そして各自が手で提げて持ったり、台車に乗せたりして、自治会館へ運んだのです。真田は一審64回公判と二審34回公判で証言しました。真田はテキストを両手に提げて持って西側の3号エレベーターで1階に降りて、4号エレベーター前を通り西玄関から自治会館へ行きました。そのとき、4号エレベーターの北側の壁に平行に置かれていたバッグを目撃しました。2~3メーター前で気づいて見ながら歩きました。時間は8時40分頃です。ただし幅がある時間です。このときエレベーターホールには人はいませんでした。

 

 バッグには新聞紙はありませんでした。バッグには取っ手もなく、黒い図柄が描かれていました。円筒型のバッグで、布製の古ぼけたバッグで、色も薄い青色でした。バッグの上部がたるんでへこんでいました。電気工事屋さんがパイプとか工具セットなどを入れておくバッグだと思った、と証言しました。真田が見たバッグは本件バッグではないことは100%明白です。真田は76年4月23日付調書(警察)と同年11月1日付調書(検察)に、目撃したバッグのイラストを描いています。真田は事件後、一週間くらいして本件バッグの写真が道庁内に貼られたのを見て、自分が当日に見たバッグは全く違うと思ったと証言しています。

 

 本件バッグはポリエチレン棒を芯にした銀色の縁取りで補強されていますから、バッグ上部が下にたるんで押しつぶされるようにはなりません。9時2分直前に本件バッグを目撃した石沢徳四郎も、山形というかボストンバッグ型に見えるバッグのイラストを描いています。取っ手も立っている状態が描かれています。本件バッグの取っ手には塩化ビニールパイプの芯が入っていて固さと弾力が保たれているので、取っ手が倒れてバッグ本体にくっつくようには決してなりません。本件バッグは前年3月から販売されたものであり、かつバッグの生地も0.7~0.8ミリの厚手のデニムで、中間に厚さ0.45~0.5ミリのゴム地が入っているから、シワになりません。そして新しいバッグです。真田が見たのは古ぼけたバッグです。また布製で生地も異なっています。本件バッグの色は濃紺です。室内では黒く見えます。真田が見たバッグは薄い青色で色も違っています。本件バッグには図柄はありません。つまり、真田は8時40分頃に爆心地点で全く別のバッグを目撃したわけですから、その前に入り出ていったA男B男は100%犯人ではないということです。

 

 (5)道庁職員飯塚友幸の証言。真田の後にテキストを台車に載せて運んだ飯塚は、同じ所に縦長の黒い物体があるのを目撃しています。8時40分過ぎ頃から45分頃のある時点です。

 

 飯塚は台車にテキストを山積みにして、3人で台車を押して東側の5か6号エレベーターで1階に降りました。エレベーターホールを南東から北西方向に斜めに台車を押していきました。彼は台車の左側からテキストが崩れないように支えながら進みました。そのとき、高さが1メートルくらい、幅が20センチくらいの黒い物体が4号エレベーター北側の壁に立てかけられているのを目撃したのです。近くに人はいませんでした。彼はその物体の横を通り抜けて西玄関から自治会館へ向かいました。飯塚は本件バッグを示されると、「そんな小さなものではないです。バッグならばすぐわかります」と証言しています。裁判官の質問には、「カバンとかいう感じは一つも受けませんでした。長い物体になんか布かなんかを巻いた物が立てかけられてあったのです」と答えています。二審4回公判です。その時点で4号エレベーター北側の壁のところには、このような物体があったのであり、だからA男B男は犯人ではありません。真田が見た古ぼけた円筒型のバッグはもうありませんでした。持ち主が持ち去ったのです。

 

 (6)道庁職員大原公子と道庁の掃除婦森木ミヨノの証言。

 

 大原は講習会があるため8時30分に出勤して、テキストを手に提げて持ち、みんなより一足先に8時35分に課を出ています。そして、課と自治会館を2,3回往復しています。だから6回、少なくとも4回は4号エレベーター前を通っていますが、本件バッグを見ていません。彼女が最後に4号エレベーター前を通ったのは8時45分から50分の間ですが、そのときのエレベーターホールの様子について、大原は「そんなに人多くないですけど」「エレベーター待ちしている人をよけて通るといった状況ではなかった。荷物を持ってそのまま歩ける状態であった」と証言しています。一審95回証言。大原は飯塚が見た縦長の黒い物体も見ていません。これも持ち主が持ち去ったのです。

 

 掃除婦の森木ミヨノは8時45分頃から50分にかけて、4号エレベーター前を3度通っています。エレベーターホールに2つあるスタンド式の灰皿の掃除もしています。彼女は事件後の3月12日付警察官調書で、「8時50分までは本件バッグは無かった」と供述していました。一審64回公判で、森木は弁護人に3月12日付調書について質問されると、そのように話したことを証言したのでした(84、85頁)。道警も森木の供述を信用したので、事件の3週間後に先程書いた道庁地下1階のエレベーター前にバッグを置いて目撃の実験をしたわけです。

 

 (7)二審判決の認定。

 

 しかし、二審判決は、真田が見た形状が全く異なるバッグと、飯塚が見たバッグではない縦長の黒い物体が、「石沢徳四郎が9時2分直前に見た本件バッグであったことは、ほぼ間違いないものと認められる」(67丁)と認定したのです!理由は「わずか10分くらいの短時間に形状の似かよったバッグないしバッグらしきものが、同じ位置にかわるがわる置かれたとは考え難い」(67丁)からだと言うのです。裁判官はこのように独裁官のごとく、平然と不都合な証言は粉砕してしまいます。「A男B男を犯人にして」「A男は大森に非常によく似ている」という藤井の嘘証言を利用するためです。判決は、大原公子と森木ミヨノが本件バッグを見ていないと証言したことについては、「見落としたためだ」と判示しました。

 

 (8)電気工事関係者が道庁で仕事をしていた。

 

 飯塚友幸は8時32、3分頃に東玄関から登庁しましたが、4号エレベーター前でしゃがんでエレベーターの修繕をしていると思える2人の男を見ています(二審4回証言)。2人は白っぽいレインコートを着ていて長髪であり、服装や髪から道庁職員という感じは全く受けなかった。4号エレベーターの扉が開いたが、2人は立ち上がったけど、エレベーターには乗らなかった。4号エレベーターは過去にも何回か故障したことがあった、と証言しました。この証言は極めて重要です。真田も自身が見たバッグを、「電気工事屋さんが使うバッグだと思った」と証言しているのです。電気工事屋がそこで仕事していれば、飯塚が見た縦長の黒い物体もわかります。4号エレベーターの北側の壁辺りは、物を置いても邪魔にならない場所です。ある時、そこに真田が見たバッグが置かれ、関係者がその場を離れたときに真田が通って目撃したのです。でも、すぐに持ち去られた。地下へ持っていかれたのでしょう。次に飯塚が見た物体がそこに置かれ目撃されたが、それもまた地下へ持っていかれた。合理的に説明がつきます。

 

 (9)A男B男も電気工事関係者。

 

 藤井が見たA男B男も、頭髪も2人とも長髪です。道庁職員なら回廊を通りますが、おかしな所を歩いていました。なによりも、A男は布製のバッグを左脇に抱えていました。これは取っ手がないバッグだったからだと考えれば納得いきます。真田が見たバッグには取っ手はついてなかったのです。布製の点も色の点もA男のバッグと一致しています。すなわち、A男B男も電気工事屋であったと考えられます。飯塚が見た4号エレベーター前でしゃがんで何か作業をしていたと思った2人の男と、同じ会社の仲間だと思われます。A男B男は荷物を持って道庁へ入り、地下へ降りてそこにバッグや白っぽい紙袋を置いたのでしょう。そして暫くして2人は西玄関から出て行った。取っ手のないA男が持ってきたバッグは、会社の他のメンバーが1階の4号エレベーター横へ持って行った。そしてまた地下へ戻った。そのときに真田が目撃したのでしょう。ちゃんと説明がつきます。

 

 (10)道警はA男B男を探し出して無関係(犯人ではない)と断定しています。飯塚が見た2人も探し出して無関係と断じています。

 

 掃除婦森木ミヨノの警察官調書は3月12日、藤井昭作の調書は4月10日、飯塚友幸は4月19日、真田高司は4月23日です。道警のバッグ目撃実験は3月23日頃です。道警は7月20日から、岐阜県で起こった可児町事件(7月2日)で指名手配された加藤三郎の「立ち回り先」として私の内偵を始めました。しかし、7月末頃には道庁爆破事件等との関連性も意識されるようになってきたので(私は7月22日から姿をくらましていた)、道警がもしA男B男は道庁爆破事件の不審人物だと考えていれば、必ず私の写真を藤井に見せるはずです。A男かどうかを確かめる。私は8月6日にアパートへ戻り、すぐ物を投棄始めましたから、藤井を札幌へ呼んで直接私を見させます。しかし、そんなことは全くありませんでした。警察はA男B男を既に探し出して犯人ではないと断じていたからです。

 

 飯塚が登庁したときに見た4号エレベーター前にしゃがんでいた2人の男ですが、3月か4月初め頃、不審人物として新聞で報道されましたが、その後は全く報道されませんでした。道警が探し出したということです。道警は4月10日に、藤井の協力を得て、渋木摩早子によってA男B男2人連れの似顔絵と、A男一人の似顔絵とB男一人の似顔絵を作りました。しかしこれら3枚の似顔絵は、私が逮捕される8月10日まで、公開捜査資料として新聞、テレビで報道されることはなかったのです。道警がA男B男を探し出して犯人ではないと断じていた証左です。

 

 (11)道警は2009年3月の時効の成立まで、現在もB男の捜査をやっていません。

 

 A男B男が道庁爆破の実行者ならば、B男は姿をくらまして逃走を続けている共犯者のわけですから、道警はB男の公開捜査(イラスト)を続けなくてはなりません。一度もやっていません。道警はA男B男を探し出して、犯人ではないと断定しているからです。即ち、藤井の「A男は大森に非常によく似ている」との証言は全くの虚偽であり、裁判官は意図的にでっち上げ認定をしたのです。

 

●本件の証拠構造と事実認定。「本件爆発物の設置と被告人との結び付き」が解体・否定されたから、裁判官は「再審開始決定」を出さなくてはならない!

 

 (1)本裁判においては、二審で改めて多くの証拠調べがなされて、二審判決は一審判決の証拠評価と事実認定を修正したり、変更しています。だから、私を有罪(大森が道庁爆破を実行した)にした「証拠の構図と事実認定」は、二審判決のそれになります。

 

 (2)本件(犯罪事実=大森が道庁爆破の実行犯である)はこれを直接証明できる証拠はもちろんありません。多くの捏造証拠を含めても、根拠薄弱な弱い証拠があるだけです。それで二審判決は、①「本件爆発物と被告人との結び付き」、②「本件声明文と被告人との結び付き」、③「本件爆発物の設置と被告人との結び付き」の、3つの主要な間接事実を設定して(他にも付属的な➃~⑥がありますが)、そして①の立証のためには、①に直接関わる証拠だけではなくて、②と③に関わる証拠も総合し積み重ねて(さらに➃~⑥も)、はじめて立証ができる。②の立証も、③の立証も、①と同じやり方ではじめてできるとしています。ただし、③の立証は①や②と比べて低い立証になっています。すなわち③に①②④~⑥を総合し積み重ねることで、「藤井が目撃したAが本件爆発物を設置した犯人であることを認定することは、十分可能であるというべきである」(171丁)としています。二審判決は前記した4月10日付の藤井のAについての供述と似顔絵が私と完全に対立していることは無視して、「Aが被告人と非常によく似ているとの藤井の証言は、相当に高く評価して誤りないものと認められる」(59丁)と判示しています。でっち上げ認定です。

 

 そして二審判決は「これら(①②③そして➃~⑥)を総合し、積み重ねることにより、本件爆破事件が被告人によって企画され、被告人によって本件爆発物が作られ、これが被告人によって爆発現場まで運ばれて設置され、時限装置の作用により爆発したことについては、証拠上疑いを容れない程にまで明らかになったということができる」(97~98丁)とでっち上げ認定したのでした。

 

 (3)上の証拠構造でわかるように、①、②,③は互いに補完し支え合うことで自らを立証しているのが本件です。だから、③「本件爆発物の設置と被告人との結び付き」は、2節目の論述で完全に解体させられ否定されていますので、①も②も立証できなくなります。だからもちろん、犯罪事実の証明は全くできなくなります。だから裁判所は再審開始を決定しなければなりません!これは、憲法の支配・刑訴法の支配、つまり法の支配が裁判官に義務付けていることです!読者の方々にはこれを理解してほしいと思っています。刑事裁判は証拠がすべてです。法廷に出された証拠によって犯罪事実が、疑いを容れる余地なく証明されたのか、そうでないかです。後者なら無罪です。証拠の捏造など論外です。捏造証拠を排除せずそれを利用することは、裁判官の犯罪です。——

 

 (4)本拙文の2節で述べましたことについては、私の裁判専用ホームページである『北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)』の「大森勝久のコラム」の第12回、13回、14回、15回、16回、17回、18回、21回に書いてあります。短文です。21回は2011年6月に書いた文です。関心のある方はご覧になってみてください。なお、このホームページは2016年10月に終了しています。

 

 志を同じくされる方、また一部共感される方でも共闘していきたいという方、ご連絡をお待ちしています。お力を貸してください。

(2024年5月16日脱)