伊豆の踊子 と 雪国 は、
文章が素晴らしいのはもちろんで、
読んでいるだけで、
映画のように
映像が浮かび、
五感にも働きかける
優れた文であるし、

また、ただ、描写を凝らしただけでなく
非常に計算され尽くされて書かれていて、
無駄な説明がないので、
語られていないことが
読み取れるようになっているのだけれども

実際、真実はどうだったんだろう
と、読み手があれこれ悩んで考察する
その読後感があとをひき、
ずっとずっとしばらく
その世界から離れられず
残る感じがある。

ある意味、謎解きのようでもあるんだけれど、

実際、人の心の真実というものは、
推理小説のように
最後に明快に種明かしされるものでは決してなく

どうなのだろう
と、自分でも自分のことがわからない時はあるし
相手のことも、いろんな関係も
いろんな出来事も

これはこうなんだ と
きっぱりいいきれることなんて
ないし、
きっぱり言って
全てが明確に割り切れて過ぎていくことは、
ほとんどないのだから、

日々、紡がれる糸のように、
連綿とおられたたんもののように、
日々と人とが、交わり織りなされて
時が流れていくのだから

答えが出ないのでいいのかもしれず。

読み手が感じたことの真実が、
感じたとおりの真理を読み手にもたらすというか


伊豆の踊子 も 雪国 も、
その場面場面に、
あ、わかる、、
という 共感できる部分があり。


ふと、今回、この2作を読んで思ったのは

伊豆の踊子 と 大島で関係を持っていたら、
結局、雪国の島村のように、
駒子をどうしてもあげられるわけでなく
ただ、思い出を残し、1人の女の身を落とさせて
去っていくしかなかったのだろうと思った。

責任というと、男ばかり重責をもたされていると思われるかもしれないけれど、

踊子 も 駒子も 救えない 
無責任な男の哀愁と懺悔のようなものを
感じる

後ろめたさを
感じる。

大島に行かずに、
手をつけずに帰った若い学生の方が
まだ、純粋で
そこで別れて、それで良かったのだ。
正解だったのだ。
罪なことをしなかったのだ 
と、感じる。

駒子は、いいなずけのために
身を落としたようにもみえるし、
島村と関係をもったから、
好きになり、
他の人ての結婚や身請けの話があっても、
気がすすまず、機会を逃して
不幸を招いて行ったようにもとれるので、

やはり島村は、罪なことをしたのだろう。

東京の生活から離れて
異世界へ自分を癒しに来ている島村は
雪にさらして身を清めた後の、織物のように、
何か新たな変化をもって
また、自分の現実へ向いて暮らしていくのだろう
今度疲れた時に、洗い張りに出る地は
別世界に向いているのだろう。

置き去りの駒子を思うと
なんとも、やりきれないし、
島村は、嫌な感じだけれど、

徒労という言葉がよく出てくるけれど、

徒労こそ、
生きている証で

なんの結果も生まず
身を結ばなくても

徒労こそが、
生命に命を吹き込んでいる意味なのではと
雪国を読んで感じたから

そういう意味では
生きている実感があるのは駒子で、

生きることに実感を持てていないのは島村で

ただ、
そんな空虚な人間だった島村が、
駒子と関わることで、
何か人間らしい後ろめたさや罪や
駒子に対する心の痛みのようなものを感じ
生きている実感や、
人の心や
魂のようなものを宿したのではないか

星が流れ込むように、
今まで感じることのできていなかった
生きる実感のような
心の動きを感じたところで
物語が幕を閉じる。

だから 駒子は 不幸だけれど
自らの人生を、自分に向き合って生き、
その意味で、生きていて

島村は、
抜け殻のような自分のないような人間で
全て他人事のように語る人間であったけれど、
新たな心が、宿り、自分の中に
星が流れ込むのを感じたのだと思う。

駒子との関係で
心を覚醒させた島村
とでも言うのだろうか。

徒労が生きることそのものだと知る瞬間が
あったように思う