『自分以外の誰かを信じること、信じ続けることは、とても難しい。そして、自分を信じることはもっと難しい』

 魅夜の美也子さんがそう言ったので、聖也はようやく、ほっとため息をついた。

「右京さんも、姫のこと、知っているのですね。緒方先輩は、僕が亜星さんから聞いて事情を知っていると思っていたらしいけれど、でも、僕は何も知らなかった」

「知りたかったことを知ることができて、聖也君は、満足かい?」

「亜星さんって、やっぱり意地悪だな……。満足かどうかなんてわからないけれど、知らない方が良かったのかもしれないけれど、姫のプライドを傷つけてしまったかもしれないけれど、それでも、僕は、殿田先輩を信じて良かったと思います」

「それは、君の自己満足に過ぎないかもしれないね」

「そうかもしれないけれど……」

「別に、君を責めているわけじゃないよ。僕も似たようなものだからね。まったく、身につまされる」

『自分以外の誰かを信じること、それはつまり、そう信じている自分自身を信じることでもあるのよね』

「そうなのかなぁ……」

「きっと、そうかもしれないね」

「亜星さんがそう言うのなら、信じることにします」

「他人に全幅の信頼を寄せるのは危険なことかもしれないよ」

「大丈夫、たとえ相手が亜星さんでも、100%信用するわけじゃないですから」

「そう言われるのも、なんだか悩ましいね」

「だって、亜星さんだって嘘はつくでしょう? たとえばさっき、姫に言ったこと。姫のピアスと殿下の持ってきたネックレスが同等の価値だなんて。あれは、姫のために言った方便だったのじゃ?」

「そのことだったら、嘘でも方便でもない。それとも、聖也君は、愛子さんの鑑定を疑うのかな?」

「そんなことは、ないですって。でも……どうして?」

「愛子さんにこの間、レクチャーしてもらっただろう。

本物と偽物について、天然石と人工石について」

「はぁ、まぁ……?」

「愛子さんの鑑定によると――」 

そして、亜星は聖也の疑問を解き明かした。

 つまり、姫が最初に質草として置いていったピアスは、本物の極上の天然ダイヤモンドで、一方、殿田の持参したネックレスは、ヘッドの一番大粒のダイヤのみが天然石で、残りの小粒のものはすべて人工のものなのだと。だから、それぞれの鑑定による評価額は、ほぼ同等なのだと。

「姫は、知っていたのかな、殿下は?」

「彼女は、自分の物については、もちろん知っていただろうね。ネックレスに関しては、ふたりとも、たぶんそれとは知らなかっただろうけれど」
「亜星さんは、最初から、すべてお見通しだったわけ?」

「僕には愛子さんほどの鑑定眼があるわけじゃないし、質草の価値については、すべて承知していたわけじゃない。それに、ものごとの成り行きというものは、それに関わる人々によって、微妙に変化していくものだろうから、すべてを読むことなんて誰にもできやしないだろう。だから、人と人との関わりというのは、本当に、奇妙で不思議なものだと思わされるね」

「姫は、やっぱりずっと殿下のことを思ってくれていて、いつか、何年か後に、あのネックレスを取り戻したら、そうしたら、殿下と姫は元通り一緒になれるのですよね。きっと、そうでしょう?」

「どうかな……。人の気持ちなんてものは、いつどう変化するか、わからないからね。当の本人の、彼らにさえも、それはわからないだろう」

「でも、僕は、きっと、大丈夫だと、信じます!」

「そう、言い切るところが、聖也君のすごいところかもしれないね」

 亜星にそう言われて、聖也は久しぶりに、ほんの少し幸せな気分になった。

 夜になると毎晩のように、二階にある聖也の部屋のベッドに、美也子さんの魅夜が遊びにやってくる。その夜も、聖也が寝ようとしたところに、黒猫が現れた。いつものように聖也は、彼女を抱いて背中を撫でたり、顎をくすぐったりしてやった。傍らには、幽体の和服姿の美也子さんが佇んでいる。店主の亜星は、一階の玄関脇の和室ですでにひとり休んでいるはずだ。彼は、自分のことについてはあまり多くを語らないので、聖也は、時々、こっそり美也子さんから、彼のことについて、いろいろ聞いたりするのだ。

「ねぇ、美也子さん、もしもあの時、姫が告白したことを、僕や緒方先輩に忘れて欲しいと彼女が望んだのだとしたら、そのとき、店主としての亜星さんはどうしただろう……僕たちがそれを拒んだとしたら?」

『そうね……星夜の想像どおりよ。亜星は、星夜や賢三君や、その相手の意志に関わらず、それを忘れさせることもできたでしょうね。幸い、彼女がそれを望まなかったので、そうはならなかったけれど』

「そうか……そうならなくて良かった……」

『それよりも、さっき、星夜が姫のための方便だと言ったときに、亜星はそうじゃないと言ったけれど、あれは実は半分は嘘なのよね』

「えっ、どうして?」

『だから、つまり半分だけなのよ。実はね、ダイヤモンドの価値としては、ピアスのものの方がはるかに高価なの。だから、同等の価値というのは、ピアスひとつ分と

ネックレス一連分とね』

「どういう意味? それじゃあ、ほとんど詐欺だよ!」聖也は首を傾げつつ、憤慨したように叫んだ。

『同等の価値と言われて、たとえば百万円分の価値だと理解した彼女は、あのネックレスを買い戻すために、それだけの金額を正当に稼ごうと努力するでしょう。十年かけてでもね。でも、実際は、その半分の努力ですむのだとしたら? 結果的に、彼女は当初の半分の期間でそれを手に入れられるでしょう。おそらくね』

「だったら、最初からそう言ってあげればいいのに?」

『さぁ、どうかしらね。もしも、そうした場合、逆に、5年、あるいは10年以上の時を費やすことになるかもしれないわ。人間というものは、往々にしてそういうものなのよ』

「なんだか、やっぱり、彼女を騙しているような気がするな……」

『いずれにしても、彼女次第なのよね』

「亜星さんは、優しいのか、厳しいのか、僕はときどきわからなくなる……」

 黒猫の魅夜が、聖也を慰めるかのように、身をすりよせるとぺろりと舌を出して聖也の顔を舐めた。

『ねぇ、星夜。人が誰かを信じたいと思うとき、そう思う時点ですでに、人はわずかでも疑いを抱いているのよね。100%完璧に人を信用なんてできないのは当たり前よ。でも、だからこそ、その上で信じてなお、それが報われたときに、喜びを感じられるのでしょうね。たとえ、それが自分勝手な自己満足であったとしても』

「信じることは、パワーだよね。思っているだけで何もできないこともあるけれど、信じること、思うことは、なにも考えないよりも、なにも思わないよりも、きっとそれだけでも、意味のあることなのだって、そう思いたいな、僕は」

『そうよね。そう思えるところが、星夜らしいところですものね。自分らしさというのは、ときには短所でもあるけれど、長所でもあるのよね。星夜は、いつも口下手だって自分を卑下しているみたいだけれど、殿田君も言ったように、必ずしも悪いことじゃないと思うのよ』

「うん、ありがとう」

『たとえば、賢三君は、賢いかもしれないけれど、彼みたいなタイプは、物事を先読みしすぎるきらいがあるわよね。彼に足りないのは、ときにはちょっと立ちどまって、まわりをよく見回して、少し待ってみることなのじゃないかしら。今回の件でも、そうだったように』

「そうかぁ……でも、先輩自身もそんなことを言っていたみたいだから、きっとわかっているのかも」

『それにしても、星夜のまわりには、面白い人間が多くて飽きないわよね』

「それって、褒めているのかなぁ?」

『もちろんよ』

 美也子さんはそう言って笑ったけれど、聖也としては、人が集まるのは、きっとこの『思出館』という店そのもの、店主の亜星のせいなのだろうと思うのだった。



⑲へつづく 

「姫……」緒方が呟いた。

「緒方君……」妃佐子も、少し当惑したように、『Mクラブ』会長の名を呼んだ。そして、無意識に一歩退いた。あるいはそのまま、踝を返そうと思ったのかもしれない。けれども、彼女は思い直したようにその場に留まった。

もし、その場にいたのが殿田先輩だったなら、きっと彼女はそのまま店を飛び出していったのかもしれないと、聖也はひそかに思った。

「先日は、ありがとうございました」


そう言って、妃佐子が店主にていねいに頭を下げた。

「いぇ、こちらこそ。今日は、どうされたのですか?」

「あの、僕らは席を外しましょうか……」

聖也が遠慮がちに言ったので、店主が彼女にお伺いをたてた。

けれども、彼女は、首を横に振ったのだ。

「いえ、構いません」

思いがけなく彼女がそう答えたので、緒方が、立ち上がりかけていた聖也を元どおりカウンター前のイスに座らせ、自分も隣に腰を下ろした。


「先日、『彼』が、あるものをお預けしましたよね。それを私が買い取るとしたら、どのくらいしますか?」

「……そうですね。あなたが、最初にお持ちになったものと、同等の価値があるかと……」

「同等? そんなはずは……いえ、もっと何倍も高額なのでは?」

「いえ、ほぼ、同等です。正規の鑑定の結果ですから」

「……わかりました。今は、まだ手元に必要な現金がありませんけれど、もしかしたら、何年もかかってしまうかもしれないけれど、きっと、用意します。ですから、それまで、あの品物を、誰にも渡さずに預かっていてもらえませんか?」

「……通常、質草をお預かりする期限は、最長3年です。けれど、うちの店では、10年まで延期できますから」

「それだけあれば、きっと……。どうかお願いします」

「承知致しました」

「ありがとうございます」

彼女は、もう一度、深々と頭を下げると、そのまま、店を出て行こうとした。

「姫……」緒方が彼女を引きとめた。 

「おやめなさい、賢三君」


亜星がカウンターの中から歩み出て、緒方を制した。  

けれども、賢三は妃佐子の背中に向かって、なおも言葉を投げかけた。

「殿田は、君のために――」

「そうよ、私のために、勇ちゃんは、何も弁解しなかったわ――。

あなたは、その理由を知りたいのでしょう」

振り向いた妃佐子が、声を震わせて叫んだ。

「彼が黙りとおしているのは私のためよ。だとしたら、私に言えるわけがないじゃないの! ……それを口にしたら、勇ちゃんの思いを裏切ることになるもの」

「君が、恐れているのは、言いたいことを言えないことかい、それとも、殿田を裏切ること、どちらだい?」

「両方よ! 私が馬鹿だったのよ。勇ちゃんは、悪くない。悪いのは、私を騙した奴と、見せかけの優しさに騙された愚かな私」

もう、彼女のあふれた感情をとめることは、その場の誰にもできなかった。そして、彼女自身も、それをとめることをもはや望んでいないことを、聖也は感じていた。

「―――妊娠したのよ、そして、中絶したの。

勇ちゃんがあいつを殴ったのは、それをあいつの口から聞かされたから。その理由を言ったら、私のことも言わなくちゃならない、だから、勇ちゃんは何も弁解しなかったのよ。そうよ、私のために―――」

 

そこまで一気に口にしてしまうと、彼女は精根尽きたように、傍に歩み寄った店主にすがりついて泣き崩れた。

「―――聖也君、賢三君、今、聞いたことは、できれば忘れてください。そうしてくれますよね」

ふたりが返答する前に、彼女がそれを拒否した。

「だめよ、忘れないで。あなたたちだけには、勇ちゃんが間違っていないことを知っていて欲しいわ。私のことはいくら軽蔑してもいいから……だから、お願い!」

「わかったよ。忘れない。そして、誰にも言わない。それでいいだろう、姫」

「僕も、そうしますから」聖也もそう同意した。

「ありがとう……」姫が涙を拭って微笑んで見せた。


そして、そのまま彼女は店を後にした。

「亜星さん、俺は、もっと、あなたや片桐さんを信じるべきだったようですね。そうじゃないな、自分をもっと信じるべきだったのかもしれない……。彼女を送ってきますから。それじゃ、失礼します」

そう言って、盲目の店主の目には映らないだろうと承知のうえでなお、彼に向かって一礼すると、緒方会長は帰って行った。



⑱へつづく

翌朝、いつものように聖也が2階から下りていくと、亜星は、中庭で日課である剣道の素振りをしていた。

こころなしか、いつもよりも、竹刀の風を切る音が鋭いように感じられたのは、聖也の気のせいだろうか。

なんとなく声をかけ難くて、聖也が黙って廊下を2歩進んだところで、亜星の方から声がかかった。

「……おはよう、聖也君」

「お、おはようございます」

それっきり、会話は続かなかったので、昨夜の電話についての話題に触れることもできずに、その後の朝食も静かに済ませて、仕方なくそのまま登校した聖也だった。

『学校にいけば、どうせ、遅かれ早かれ星夜も事情を知るでしょうに』魅夜が囁いた。

「それならば、僕の口から言う必要はないだろう」

『星夜は、どう思うかしらね?』

「………」


 

そして、登校した聖也は、その事件を知ったのだった。

 

学園内は、先日の、姫と殿下の婚約解消騒ぎの時よりもさらに騒然としていた。

「沙耶花、今日は、なんの騒ぎ?」

「一大事よ。殿下が暴力事件を起こしたのですって!」

「そんな、まさか……」

「昨夜のことらしいわ。警察沙汰にもなったらしくて、学校側も、何らかの処分を下さずにはいられないだろうって……」

「処分? まさか、その謹慎とか、停学とか?」

「まだ、詳しいことはわからないけれど、でも、大学の推薦だって決まりかけていたらしいのに、それどころじゃないかも……」

 

例によって、放課後の『Mクラブ』にはメンバー&部外者の面々が集まっていた。彼らが集めた情報によると、どうやら、街にたむろしていた数人の少年たちと殿田が乱闘騒ぎを起こして、警察に補導されたとのことだった。喧嘩の原因については、各自が口を閉ざしているものの、相手の少年たちの言い分によると、先に手を出したのは殿田の方で、殿田本人もそれは認めているらしい。

「そんなの嘘よ。殿田先輩に限ってそんなこと!」

「でも、相手に怪我を負わせたのは事実らしいし」

「そりゃ、先輩は柔道二段だぜ、まともにやりあったら、相手は無傷でなんていられるものか」

「殿下は、どうして?」

「……姫とのことで、ヤケを起こしたとか……」

「あり得るな……、優等生ほど踏み外すと危ないっていうからな……いや、嘘、うそだって」


ぼそっとそうもらし、他のメンバーのひんしゅくを買ったトシが、助けを求めるように、緒方の方を向いた。『Mクラブ』会長は、皆のやり取りに加わることなく、いつものようにノートパソコンに向かっていた。


さすがは、常に沈着冷静であることがモットーの彼だけのことはあると、聖也は感心したものの、彼が、本心では、この騒ぎを煩わしく思っていることを、なんとなく感じていた。

「おい、いつからここは、単なる噂話や中傷の場になったのだ? 他人の不幸がそんなに楽しいのか?」

「……そういうわけじゃ…」トシが弁解する。

「みんな、殿下が心配なだけよ」と、倫子。

「心配するくらいなら、自分たちの元生徒会長を信じてあげたらどうなんだい」

「そうですよ! きっと、殿田先輩には、ちゃんと理由があってのことだったのかも」聖也は思わず叫んだ。

「聖也、お前、何か知っているのじゃ?」

「えっ…、そうじゃないですけど、ただ、僕は殿田先輩を信じたいだけです……」

それから、メンバーはひとりふたりと、帰っていった。

なぜか、最後に残ったのは、緒方会長と聖也だった。

「聖也……」

「は、はい」

あらためて名前を呼ばれて、聖也はなぜかドキドキしてしまった。

「……人を信じるのは簡単だよな」


聖也には、なんと返答していいのかわからない。


やがて、彼が言葉を続けた。

「そうさ、信じることは誰にでもできる。だけど、信じたいと思うものを信じ続けることは、難しい」

「……先輩」

「――なかなかの名言だな。いいフレーズだろう?」


「……小説のネタですか?」

「小説書きに必要なのは、物事を俯瞰する視点、神の視点か。それには、あまり渦中に身を置かない方がいいのだろうな。客観的にものを捉えるためには」

「――先輩は、何か知っているのですか?」

「さぁね、知っていることもあるけれど、知らないことの方が多いだろうな。聖也こそ、亜星さんから何か聞いているのじゃないのか?」

「えっ、どうして、亜星さんが?」

「何も聞いていない? 意外だな……俺はてっきり」

「店に関することだったら、亜星さんは店主として口外なんてしないですから」

「どうかな。それじゃ、たしかめに行くとするか、どの道、言いたいことは山ほどあるし、聞きたいことも」

 


それから、聖也は、緒方先輩にせっつかれるようにして、下宿先の『思出館』へ帰ってきた。

「お帰り、聖也君」

「ただいま。緒方先輩も一緒ですけど、いいですか?」

亜星には、説明不要だとは思いつつ、先輩の手前、念のために、彼が一緒だと説明する聖也だった。

「どうも、お邪魔します」

「久しぶりですね」と言いつつ、店主の彼がお茶の支度を始めた。いつもの緑茶ではなく、それは紅茶だった。聖也はほんの少し首を傾げた。亜星の従姉の薫さんが、紅茶党だと聞いていたから、置いてあるのは知っていたけれど。

「珍しいですね、紅茶なんて」

薫さんが、紅茶党だからね。常備してはあるのだよ」

それはまるで、聖也の心の中をそのまま、言葉にしたようだった。

3人はそれぞれ紅茶のカップを口に運んだまま、しばらく沈黙していた。聖也は、なんだか気まずくなった。緒方先輩はなぜ何も言わないのだろう。ここで自分が何か言うべきなのだろうかと、聖也が口を開こうとしたそのとき、聖也たちが入ってきた北側とは反対の南側の扉が静かに開いたのだった。


「いらっしゃいませ、ようこそ『思出館』へ」

店主が、いつものように、まるで初めてのお客を迎えるかのように、そう挨拶を述べた。

彼はいつでも、来訪者が誰であるのか、あらかじめ承知しているはずなのに。


そして――そこに立っていたのは、姫野妃佐子だった。 

 



⑰へつづく

翌日、緒方が『思出館』を再び訪れた。

無言で店の扉を開け、店内に入ってきた彼に、店主は半ば首を傾げる素振りを見せつつ声をかけた。

「賢三君かな……?」

「どうして、わかるのですか? 見えないのに」

「なんとなくね。昨日は、失礼してしまったね。きっと気分を害したのじゃないかな。しばらくは、顔を見せてくれないかと思っていたな。それでも、ひょっとしたら、逆に、また来てくれるかもしれないとも思っていたのでね。お茶でも飲んでいくかい?」

「……いただきます」

緒方は、出された緑茶を静かに啜った。

「聖也君は、まだ学校かな……」

「たぶん、『Mクラブ』じゃないかな」

「会長の君はここにいるのに?」

「そもそも勝手きままな連中の集まりですから」

「殿田君は? あれから何か相談されたかな?」

「なにも。あれから会っていないし。今日は、欠席でしたから。片桐さんに連絡したのかどうも不明だ。あなたに聞けばわかるかもと」「こっちも、連絡はないね」

「そうですか。実は、今日お邪魔したのは、それとは別にちょっと、亜星さんに聞いてみたいことがあったので」

「僕に? さて、何かな……」

「昨日、ひとつ、ひっかかったことがあって。俺の気のせいかもしれないけれど。姫と、ここ『思出館』と亜星さんと片桐さんとが、関わりがあったことと、それで、殿田の事も先刻承知だったことは納得できたけれど、それにしても…ひょっとして、殿田の依頼の内容が姫に関することだと、あなたや片桐さんは予め知っていたのでは? もしそうだとしたら…どうしてですか? 俺は学校での彼と彼女の噂や事件を知っているけれど、亜星さんに片桐さんへの仲介を頼んだ時には、殿田の名前は出さなかったはずなのに…?」

返答を迫られた店主の彼は、しばらくは、無言のままだったが、やがて、にっこりと微笑んで見せた。

「さすが、『Mクラブ』会長さんですね」

「あなたに感心されても、なんだか揶揄された気がしますけど」

「たしかに。昨日、右京さんが、賢三君と殿田君に話した姫野妃佐子さんに関する話の内容は、部分的なものでしたから、賢三君が不可解に思って、納得できないのも道理ですね」

彼が「たしかに」と答えたのは、自分が言ったどの言葉に対してなのだろうと、緒方は一瞬、勘繰った。

店主の彼は、構わず言葉を続けた。

「でも、彼女のプライベートな秘め事については、やはり、全部をお話するわけにはいきませんでしたから、それは、納得してもらうしかありません」

やはり、なんとなく、うまくはぐらかされたような気がするものの、その場は、緒方としては引き下がることにした。それでも、ささやかに一矢を報いるべく、言葉を返した。

「昨日、亜星さんが、そこの暖簾の陰から現れたときに、思いついた言葉があるのですけど。『 暖簾に腕押し 』……まさしくそんな感じですね」

「賢三君は、小説家志望だとか?」

「ええ、だから、こう見えても、身近にいる人物の人間性を見抜く洞察力には、少しは自信があったのですけれどね。それが、的外れの自負でないことを祈りたいところです。まだまだ、修行が足りないかな。そうだ、いつか、亜星さんをモデルにさせてもらってもいいですか?」

「聖也君や、右京さんの方が、主人公向きじゃないかな」

「ご謙遜ですね。まぁ、いいや。将来のために、せいぜい人生経験を積むことにします。それじゃ、ご馳走さま」

「また、いつでも、どうぞ」

「その時は、緑茶じゃなく紅茶にして下さい。よろしく」

店主がひとりきりになると、黒猫の魅夜が語りかけた。

『なんだか、うちの店も喫茶店と化してきたわね。本当に、次は紅茶を用意してあげるのかしら?』

「いつだか、お客さまでなくても、店に人が集まるのは活気があって良いことだと、そう言ったのは美也子さんだろう。さて、右京さんは、仕事に勤しんでいるかな…」

右京から電話があったのは、それから間もなくだった。

報告の内容は、殿田からあらためて依頼を受けて、彼の欲する情報を提供したことと、その後の彼の行動を監視中とのことだった。

そして、その日の夜11時近くになって、再び『思出館』に電話の音が鳴り響いた。

最初に受話器をとったのは、バイトから帰って風呂から出たばかりの聖也だった。

『もしもし……聖也か? 亜星は?』

「右京さん? 亜星さんならとっくに寝ていますけど」

「いいから、起こしてこい!」

無茶苦茶だなぁ…と思いつつも、どこか切迫した様子なので、無碍にもできず、電話を保留にして、聖也は亜星を呼びに行った。廊下の途中に、浴衣の寝巻きに丹前を羽織った亜星が立っていた。

「あ、亜星さん、右京さんから電話ですけど、なんだか取り混んでいるみたいでしたけど……」

「ありがとう、わかったよ。聖也君はもう寝てもいいから…おやすみ」

そうは言われても、気になってとても眠れそうもない。

聖也は、2階に行くふりをして、階段の中ごろでじっと耳をそば立てた。亜星の声はあまり聞こえなかった。きっと右京さんが、一方的になにかを話しているのだろう。

「…………そうですか……仕方ないですね。とりあえずご苦労さまでした」

しばらくして、亜星がそう言って、電話を切った。




⑯へつづく

それから、右京が経過報告をした。

もっとも、必要最小限の内容だけで、すべてを打ち明けることはしなかった。だから、殿田と緒方が知ったのは、当り障りのない部分だけだった。つまり、姫野妃佐子がどういう事情からか、『思出館』に客として訪れたことと、店主の亜星が、姫について身辺調査の依頼を右京にしたことと。

それ故に、二人の高校生には、かえって不可解な印象を残したようだった。

そして、殿田が、その疑問を店主にぶつけてきた。

「質屋というのは、そうやって、いちいち、お客の身辺調査までするものなのか?」

口調が自然に荒くなるのは、不快感を隠しきれないからなのだろう。

「お客様に幸せになってもらえること、それが、僕の願いであり、店主としての信条ですから、そのために必要とあれば」

「姫は…妃佐ちゃん本人は、承知しているのか?」

「最初は内緒でしたけれど、最終的には、了解済みです」

「どうだか、あんたたちが、うまいこと言いくるめたんじゃないのか……」

「彼女は、感謝こそすれ、恨みがましいことなんていわなかったがね。どうしても、納得できないと言うのなら、彼女本人に確かめてみればいいだろう」と、右京。

「それができるくらいなら、こんな所にいやしない」

「そうかい、それじゃぁ、あらためて聞くことにしようか。君は、探偵としての俺に、何を依頼したかったのだい? 姫野妃佐子のなにが知りたかった?」

「それは……」

さきほどまでの不遜な態度と打って変わったように、殿田は大きな体をほんの少し小さくして、元柔道部主将らしからぬ、ためらいを見せた。やがて、かすかに顔を赤らめて、ようやく決心したように呟いた。

「……俺が知りたかったのは、妃佐ちゃんの本心だ。もしかしたら、彼女には他に好きな奴がいるのかも……。もし、そうだとしたら……、俺は、きっぱり諦める」

「彼女の本心なんてものは、本人にしかわからないだろう。ひょっとしたら、本人にもわからないかもしれない。それでも、君には、気の毒だけれど、俺の調査によれば、彼女がつきあっていたらしい相手はたしかに存在したようだ。その相手を知りたいというのなら、情報を提供することは可能だ。どうする?」

あらためてそう問い返されて、殿田は即答できなかった。彼には、右京に告げられた事実だけでも、耐えられないものだったのだ。彼は唇を噛んだまましばらく沈黙したあとに、ようやく答えた。

「少し、考える時間をもらえますか……今日は、もうこれで、帰らせてもらいます」

そして、殿田は肩を落として店をあとにした。


緒方は、彼と一緒に帰ろうとしたものの、探偵に一言もの申すためにと、その場にとどまった。

「片桐さん……どうして……」

「緒方クン、君の言いたいことは承知しているさ」

おどけたふりをして苦笑いしながらも、右京は次の瞬間には真顔になった。

「俺を紹介した君の立場からすれば、文句を言いたい気持ちもわかる。だけど、言わせてもらえば、君も、現実の探偵ってやつがどんなものか、知っておいた方がいいだろうと思ってな。他の奴がどうかは知らないが、商売としての探偵って奴は、ここにいる質屋の店主みたいに、お客の幸せや満足なんてものは二の次でね。依頼さえ果たせれば、それによって報酬が得られさえすれば、それでよしとする。それがすべてだ。依頼された情報によって、必ずしも依頼主が幸せになれるとは限らない。むしろ多くの依頼主は、知らずに済んだ方がよかったと思っていることだろうな。それでも、依頼を果たすというのは、そういうことなのさ。わかったかい、会長さん」

「……わかりました。俺は、まだまだ世間知らずだったみたいですね。でも、ひとつだけお願いします。もし、殿田が、姫の相手についてたずねてきたとしても、できれば彼には教えないでもらえますか」

「さぁ、彼の出方次第だな。君はあくまでも紹介者にすぎない。俺の依頼主は、君でなく、彼だからな」

「そうですか。でも、俺は彼がどんな奴か、あなたよりは承知しているつもりですから。もし、相手の奴が姫にふさわしい善人なら、殿田は素直に祝福するだろうけれど、もし万が一、相手が姫を泣かせるようなろくでもない奴だとしたら、彼がどうするか想像できますから」

「参考までに聞いておくが、君の言う、その善人とろくでもない奴とは、どう判別するのだい?」

「それについては、あなたの判断に委ねます。俺の危惧が杞憂に終わることを祈ることにします。それじゃ、失礼します」

そして、Mクラブ会長の彼も店をでていった。

右京は、懐から煙草を取り出して、口に咥えた。

「なんだか、どこかの誰かの物言いに似ていたな。あの会長、お前に傾倒しているんじゃないか? それにしても、後味が悪いな……これで、よかったのか?」

「損な役周りでしたね」

「お互い様だろう。あのまま、収まるとは思えないが」

「そのときは、そのときでしょう……」

「時々、思うことがある、なんで、探偵なんてものになっちまったのだろうと」

「警察官に戻りたいのですか?」

「馬鹿言うな。そんなことは思っちゃいない」

「右京さんには、似合っていると思いますよ」

「……お前の言う、お客にとっての幸せってなんなのだ? 他人にとっての幸せのなんたるかなんてものが、本当にわかるとでも?」

「それは、難しい問題ですね」

「少なくとも、真実というものが、常に人を幸せにするとは限らないだろう」

「そうですね。嘘や偽りが、必ずしも人を不幸にするとも限らないというように」

「意図的に嘘をつく人間と、無意識に嘘をつく人間と、はたして、どちらがより罪深いのだろうな……」

「さぁ……?」

「お前って、やっぱり悪魔みたいな奴だな…。どこかで、人の心を弄んでいないか?」

「そんなつもりはありませんけど……。ただ、さっきの問題についてなら、たしかに、幸せのあり方なんてものは、その人それぞれでしょうから、そのお客様にとっての本当の幸せと、僕が思うそれとは違うこともあるかもしれない。だから、結局のところ、僕の勝手な自己満足にすぎないのかもしれません」

「それならそれで、いいじゃないか。他人の為なんて言うよりよっぽどましな気がするな。自分自身さえろくに満足させられない奴が、自分以外の他人を満足させられるわけがないからな。それに、俺としてはむしろほっと安心させられた気がする。お前にも、ちっとは人間臭い部分があったということに…な」



⑮へつづく