女医の上条真琴が、『思出館』を訪れたのは、右京がやって来たときよりも数日前のことだった。
いつものように、店主が来客に挨拶を述べたあと、女医の彼女が、自己紹介で答えた。
「上条です。覚えていらっしゃるかしら?」
「はい、先日は、お世話になりました」
店主の用意した緑茶を啜りながら、彼女がたずねる。
「いつも、そうやって和服姿なの?」
「亡くなった祖母の知り合いに呉服屋さんがおりまして、季節ごとに誂えてくれるものですから」
「私も、和服を着てみようかしらね。仕事中はちょっと無理だけれど、プライベートならいいかも。着付けの心得もおありとか、そのときは、お願いしてもいいかしら」
「今日は、そちらのご依頼ですか? 僕は、あくまでも師匠の助手ですから、それほどお役には立てないかと…」
「そう、いいわ。もちろん、今日お邪魔したのは、質屋『思出館 忘七草』のお客としてよ」
その名のもとに、店を訪ねるお客は、店主の持つ不思議な能力を頼ってくるのだ――。
「右京さんからの紹介ですか?」
「そうね。彼から、私のことは聞いたでしょう?」
「―――はい。ご依頼の内容を伺います」
「あなたの、質屋『思出館 忘七草』の店主としての、不思議な力について、右京から少し聞かされたわ。そして、思ったの。もしも、今現在の私をあなたに預けたら、ほんの数日だけでいいから、以前の私を取り戻せるものなのかと。もしも、それが可能なのだとしたら」
実際のところ、彼女は、内心ではまだ半信半疑だった。
けれども、店主の彼は、不可能だとは言わなかった。
「詳細をどうぞ―――」
彼女は、自分が緊張していることに気がついた。
外科医として患者の前では、常に沈着冷静であることを自負してきたはずの自分なのに。右京相手にさえ、あまり感じたことのない心地よい緊張感を、今、感じている。ひょっとしたら冗談から駒かもしれない。自分はこの盲目の和装の店主に好意を抱いているのかもしれないと、彼女は内心苦笑した。たった一度会っただけの、しかも自分や右京よりずっと年下のはずの相手に、他人には見せたことのない本心をさらそうとしているなんて。
「……3日後に、郷里の父に会いに行くことになっているの。父とは、私がカミングアウトしてから、絶縁状態だったのだけれど。もう、余命いくばくもないので、母がどうしてもと言うので」
店主は、黙って彼女の話の続きを促した。
「正直なところ、まだ迷っている。今の本当の自分を父に見せるべきか、それとも、せめて最後くらいは父の望む、息子としての姿を見せるべきか……」
「―――女性になったことを後悔しているのですか?」
「何年も悩んだ末に、自分で選択したことだわ。望みの自分を手に入れたつもりだった。それを後悔したくはないけれど、それでも、代わりに失ったものもたくさんあったから。承知して納得していたつもりでも、実際は想像と食い違うことだって間々あるでしょう。だから、何も後悔しなかったといえば嘘になるわね。誰だってそうでしょう。一生のうちに、後悔をしたことが何もなかったなんて言い切れる人なんていやしないでしょう?
あなたは、どう?」
「後悔をしたことがあるかないか、ですか?」
「ええ、そうよ」
「ありません……」
「……じゃあ、嘘をついたことは?」
「それは、あります」
「それじゃぁ、今、言ったことも嘘かもしれないということかしら?」
「どうでしょう? あなたが、そうだと思うなら、そうかもしれません」
「あなたって、見かけによらず可笑しな人ね」
「どれほど真実なのだと主張しても、相手がそれは嘘だと思えば、それは嘘ということになってしまうでしょう」
「真実は常にひとつ、そういう考え方もあるわよ」
「そうかもしれません。ですから、人それぞれの心の在りよう、それ次第ですね」
「今の自分が真実なのだと、そう思いたいわ。でも、他人から見れば、作られた贋物でしかないのかもしれない」
「僕は、あなたの外見を知ることはできませんが、お会いして、お話をしているうちに、お人柄を知ることはできます。そして、そこから外見を想像することもできますが、それは、それほど意味のないことかもしれません」
「失礼かもしれないけれど、それは、あなたが盲目だからなのでしょう」
「――― 人の心に、性別はあるのでしょうか?」
「それは、詭弁よ」
「そうですね。でも、僕の両親や祖母はすでに他界していますが、肉親の情というものは今も感じることができます。あなたのご両親が、会いたいと切望しているのは、性別にとらわれることなく、ただ、あなたという存在そのものなのではありませんか?」
それからしばらくの間、女医は口を開かなかった。
やがて、感嘆とも、諦めとも、決断ともつかない、溜息をひとつついた後、彼女はようやく微笑んだ。
「あなた、質屋なんてよりも、カウンセラーの方が向いていそうよ」
「質屋の店主というのも、なかなかいいものですから」
「まったく、道楽よね。こんな上客を袖にするなんて」
「またのお越しを、お待ちしています」
「今度は、お客としてではなく、個人的にお会いしてみたいものだわね」
「そうですね。お医者様とお知り合いになるというのも、いざというときに、心強くていいかもしれません。なるべくお世話にならずに済ませたいとは思いますけれど」
「ねぇ、私の恋人だということで、一緒に両親に会ってくれないかしら?」
「――― 本心ですか?」
「嘘よ。ちょっと、あなたを困らせてみたかっただけ」
「右京さんの方が適役かと」
「彼はだめよ。嘘が下手ですもの。それに私も、彼にそんな嘘はつかせたくないの」
「それこそ、右京さんの本心を聞いてみないと、わからないかもしれませんよ」
「そうね。でも、彼の本心は、知っているわ。人の心はままならないわね」
「僕は、相手の願いをかなえてあげたいと思うこと、それが、愛情のひとつというものだと思います」
「でも、願いがひとつだけとは限らないでしょう。そして、人間というのは、往々にして、相反する願望を同時に抱いてしまうものなのよね…。ねぇ、こんな言葉を知っているかしら?
『愛のおのずから起こる時まで殊更に喚び起こし且つ醒ますことなかれ――――』
誰の言葉だったかしらねぇ……」
〈21〉へつづく