こんばんわ。

クソ皇子テクニックのお時間です。

はい、ここまで昔の人をネタにしてるのか私怨をぶちまけてるだけなのか不明なのは私だけじゃねぇのかと…今更ながら戦々恐々しております。

はい、ストレスからくる甘えです。過去にリスペクトなくてすんません。




さて…改めまして、やはりブログはいいものですね。頭の中を整理しつつ気持ちを吐き出し一端真っ白にさせてくれる。

いつまでも昔への気持ちを持ち合わせていても今を生きるのに足掛けにしかならないというのがこれまでの経験からの学び笑


さて、今回は短めに書きましょうかね。

感情的になりそうなので…


大津は不比等他や皇子とも最初のころは仲はそこまで険悪ではありませんでした。

たぶん、なにごともなければ時代的に争いこそ避けられなかったにしろ大津であった私ははもう少し生きながらえることが出来たのかもしれません。


結果を先に言いえば、

不比等、天智、天武は確かに国のことをおもっていながら行動していたと思います。

誰を討って某をしたのかはまだわからないことだらけです。

しかし大津が私刑にいたらしめられたのは持統含む周りの女達の私的な欲望と感情による権力争奪劇に巻き込まれたのが一番の理由と記録しております。

不比等はそれを見て考えを変えて生き残るほうにシフトした?…という感じらしいです。

聞くところによると不比等もどうも誰かかしらに騙されていた?らしいですが、真実は彼しか知りません。


まず大津である私は当時、

盟約のあとくらいですかね、天皇継げないとわかったらプツンとなにかが切れて、やってられるか精神のまま毎晩の如く百済やならずもの達とチームを組み義賊みたいなことをしてました。

盟約聞いてたとき、

「あ、マジか。ならいいや。姉ちゃんやオカンに立派になった姿を見せたかったけど…俺民草のみんなと仲良くなる道を選ぶ」と天皇の席を内心無理やり諦めて自由に恋愛や交流を楽しもうと公務以外は民草と楽しくやろうと決めて今まで以上にみんなとどんちゃん騒ぎするようになりました。


そこにはストレス発散もあったでしょう。

当時民草と深く交流をしてたのは大津だけと自負もしていました。

しかし上のどこかで決められたわけのわからない盟約なんぞに振り回されて努力を踏みにじられたことが許せなかった。

母の代わりに必死に育ててくれた姉が影で泣いていたことを嘲笑い死んだ母すら罵倒して尊厳を踏みにじった女の子どもが天皇になるということも納得できなかった、と当時の私は憤慨していたみたいです。


だから違う意味で反撃をしようと試みたのです。民草に選ばれたのは自分だと。

それを示し優位性を朝廷に示したかった。自分を認めてほしかった。親の愛情が欲しかった。母や姉や世話になった人達の労力を無駄にしたくなかった。社会的に思い知らせてやろうと思った。つまるところ諦めきれずに駄々をこねたのですよ…けど民草は笑ってましたわ。

皇子様やることバカじゃん!みたいなノリで。

…ただその時は自分が皇族というのを忘れて勢いで生き始めてたので僧侶や向こうの元王族からしたら利用しやすいポジになってたかなと。

けれど、あの瞬間はほんとうに悲しくもみんなが周りにいて楽しかったな。



しかし、朝廷の政治的にはおもしろくない。

大津が所属したならずものチームの中には百済の王族の生き残りや僧侶もそこにいて、彼らともうまくやってるという情報は少なからず朝廷内にも届いていた。

※朝廷勤務の元王族と元蘇我とはなんか上手くいってたし、そこと繋がりのある民草のなかにも元蘇我勢もいたので色々と説明しにくい


天皇を草壁にしようというのは決まったものの大津は民草からの信頼を得ている。

他の皇子も納得はしてないが上が決めたことならと渋々したがっている様子…

持統は常に動いてて色んな人に草壁の周りできちんとサポートしてほしいと話をしていたみたいだが。


そのなかでプチはぐれ者を満喫してた大津に

一度だけ持統が話を持ちかけてきたことがありました。

「草壁の近くでサポートしてやってくれないか?決して悪いようにはしない。太田皇女は私の言うことを聞かなかったからあんなことになった。大伯みたいな忌々しい女と違い御前は優秀で物わかりもよいし民草との信頼も出来ている。手放すのは惜しい。私にしてきた無礼は一切流す準備もある。どうだ?草壁の側近にならないか?」みたいな感じで。

私はこんな感じで返しました。

「なぜ?私はもう継ぐことは出来ない。だから民草と信頼を築き新しい居場所を作ることにした。草壁には悪いがアイツに天皇が勤まるとも思えん。かといって勝手に決められてこっちも腹が立っている。私を天皇にするならともかくな笑

どうせなら天皇と同じくらいの立場を用意しろ笑」

と。

わぁ、自分でいっておいてなんだけど自信家笑


けどこの一件だけでなく持統やその周りの取り巻きに日常的にヘイトを溜めてしまっていた大津。

かつ、朝廷内外にいる百済の生き残りや蘇我の生き残りと結託して朝廷を内側から支配して第二の百済王朝を作ったり蘇我を再興させるのでは?と思わせてしまうほど周りを巻き込んで大きな渦を作り出してしまっている混沌とした現状がそこにありました。

場合によっては百済勢と蘇我勢が独自に息を吹き返し兼ねない。

ここまでくると、影で大津は天皇になれなかった反動で朝廷に反逆する気なのでは?と噂されてしまう材料が出来てしまってることになりますね。

皇子としては自由奔放が積み重なって仇になった…というところでしょうか。


実力ないのに無駄に態度がでけぇと今も言われてるのはそのころの名残か。

反省…。


一方的不比等はそのころ悩んでいたそうです。大津は自由奔放すぎて話を聞かなくなってきたし、他の皇子からの愚痴を聞いたり持統から権力をエサに誘われてることにも日々の疲れが溜まり、迷いが日に日に大きくなっていった。

草壁との関係のは必然だったのでしょう。

それはもういいのです。


本音を言うと大津の気持ちとしては草壁と政治の話をしてる不比等が気にいらなかった。

これもわがままと嫉妬ですね。

不比等に掴みかかって怒鳴ったこともありますが、不比等にも夢がありそれに邁進している最中でした。心中は穏やかでなくとも彼が優先したのは友情ではなく国の発展でした。

その頃からすでにすれ違いが起こり、次第に会話もすくなくなっていきました。

というより、大津が会話を拒んだのです。


彼は手腕で相手が納得する形に答えを作れば納得させられる自信があったのでしょう。

しかし心はそうはいかない。

友の心と向き合わなかった男に二度と笑顔は向けられないのです。

…それでも前を向いて生きてほしいとは思いますがね。



この時点で大津と不比等は完全にすれ違ってそれぞれの道を歩み始めようとします。


大津は寂しさと失望から、朝廷では与えてもらえなかった暖かさを感じた民草と進む他の可能性をさぐるようになり、そちらに道を見つけあわよくばそちらで自分の街や国を作ろうと考えた。


不比等は持統の指示はあったものの大津や他の皇子とは違うものを草壁に感じ、彼と信頼を築きつつ自らの欲望に従い、暗い闇のなかで朝廷の願いを一心に受けて律令政権を作る道を進んだ。


ここから百済や蘇我や僧侶達の恐ろしい手腕が大津を襲ってきます。。。




と、いうところで一度区切ります。

ほんと長くなりがちですね笑

みぢかくねぇ笑笑

あ、そういや皆さん知ってました?

大伯姉。結構性格悪いんすよ笑

性格の冷たさが一本槍になってるというか笑


次回はこの続きから。

自分の知る限りの顛末を語ります。

分割するかも?ですが。

ではでは。