#4「扉」

 携帯のアラーム音より先に母親の声で目が覚めたのは何年ぶりだろう。昨晩は色んな感情が交錯していたせいでうっかりアラームをかけ忘れていたのだった。
 いつもに増して快い朝。昨日の早すぎた決断に、圭人は自分でも意外なほど後悔などは感じていなかった。むしろ、それ以上に清々しい気持ちのまま朝を迎えていた。母の声で幼心を思い出したかのような圭人は、筋肉痛の脚をほぐすようにして部屋を出た。

 階段を降り洗面所に入った圭人は、水を出して顔を洗おうと両手に溜めた矢先、ふと鏡の中に映る自分の顔に気を取られた。自分の肌、髪先、歯並び、二重幅と、自分の顔を事細かく見つめる。今まで意識していなかったからなのか、改めて自分の顔と向き合うことが圭人にとって新鮮だった。生えっぱなしの眉毛は見すぼらしく妙な恥ずかしさを覚えた。指の隙間からは溜めていた水が静かに溢れていた。

「圭人?」

 突然ドアの向こうから声がした。慌てた圭人は急いで顔を洗い流し、咄嗟に洗面所を出た。

「そんな慌てなくても……。」

 異様な圭人の姿に母は笑いながら言った。

「今日は午後から体育だしちゃんとご飯食べとかないと。」

 恥ずかしさを紛らわすかのように圭人は早足で食卓に着いた。いつも通りの朝食。心なしか、圭人の目にはいつもより豪華に映った。

「いただきます。」

「……いただきます。」

 父が単身赴任で越してから、圭人は母と二人三脚の生活をしていた。たまに母親の無神経な部分に苛立ちを感じるものの、それを素直に受け止められるほどの信頼関係は築いていた。放任してくれる優しさよりも過保護な母親の愛情に内心どこか心地よさを感じていたのかもしれない。

「昨日はよく眠れた?」

「うん、ちゃんと寝られたよ。」

「それは良かった。」

 昨日のこともあってか、普段は勉強のことばかり口にする母が今日はやけに無口だった。未だに不機嫌だと思われたくなかった圭人は、出来るだけ柔らかい表情で居ようと眉間の力を抜いた。
 テレビも点いていない静かな空間で、黙々と二人は箸を動かす。圭人が感じている心細さを同じく母も感じていることは彼には分かりきっていた。
 いつもと違った空気の食卓だったせいか、圭人はある違和感に気づかないでいた。手元に携帯が無い。朝は天気や時間を確認するのにも全て携帯に一任していた圭人だったが、その違和感に気づいたのは朝食を食べ終わる寸前だった。慌てて圭人は二階に上がり、ベッドの上にある携帯の電源を入れた。ホーム画面には友達からの新規メッセージが溜まりに溜まっている。その中に期待していた彼からの返信はまだ来ていなかった。
 寂しい気持ちと同時に、少し安堵したような気持ちで階段を降りた圭人は、携帯を鞄に仕舞い真っ白なスニーカーの紐を括った。

「いってらっしゃい。」

「いってきまぁす。」

 圭人はいつもと違った心持ちで家を出た。母もまた、いつもと違った面持ちで圭人を見送った。

 駅までの道のりは自転車で約15分程度。圭人にとってその間は心を浄化させる時間だった。追い風は自転車を容赦なく加速させる。勢い余って歩行者に衝突しそうなほどだった。横断歩道を目前にするたび、ブレーキはうるさく悲鳴をあげた。
 駅の駐輪場に着いた圭人は携帯で現在の時刻を確認した。いつもより5分も早く着いていたことへの驚きと同時に、一件のメール受信通知が目に入った。一瞬圭人は息が詰まり、胸が強く締め付け上げるような感覚に陥った。恐る恐る開けてみると、やはりそこには彼のアドレスがあった。

『メールありがとう。よかったら今夜会わない?』

 本文を見るまで緊張しきっていた圭人だったが、その簡潔で率直すぎる文章に、思わずその場で吹き込んでしまった。周りに居た人たちは一斉にこちらに視線を向けた。慌てて無心の表情を繕った圭人は、冗談だと思いつつもウブな振りをして丁重な返信内容を考えた。

『こちらこそ!いきなり会うのは怖いから、もっと君のこと知りたいな。』

 圭人は既にメールを送ることに何のためらいも無かった。しかし、彼のメール内容がもし真剣だったならばメールを送る相手を間違えたのは確実であった。
 会うことを意識していなかった訳では無い。ただ、こんなにも早く話が展開すると思っていなかった圭人の心には、多少の恐怖心が芽生えていた。今夜会うことなんてまずあり得ないだろう。いや、もしかすると2パーセントも満たない確率であり得るかもしれない。衝動がどこまで意思を超えてくるものなのか、本人にも分からずにいた。
 気がつくと、圭人は駐輪場で10分近くも携帯と向き合っていた。慌てた圭人は急ぎ足で駅へと向かった。
 駅内では、改札を通る何人もの人間が早足で横をすれ違っていく。

ーー皆どこを向いているのだろう。どこに向かっているのだろう。僕はどこへ向かうのか。

 不安の根源も分からないまま、圭人が無心で足を止めた12番ホームにはあまり人が居なかった。
 携帯を入れた右ポケットに全ての意識を持っていかれる。見た目は平静を保っていたが、心の中ではあらゆる感情がうごめいていた。西の方からは電車の先頭車が次第にこちらに近づいていた。
 映画のクライマックスシーンのよう高揚感と緊迫感、乱れた騒音の中で、右ポケットが確かに震えたのが分かった。急いで開けてみると、やはり彼からだった。

『じゃあ今夜までに君のこと詳しく教えてよ』

 間も無く、圭人の目前で扉が開いた。