新型コロナは一向に落ち着かず、ですね。

東京を批難する声が聞こえるのもつらく。(東京に住んでいるので)

かといって、医療体制が整っていない地域では確かに「持ち込まれたら困る」

というのは事実。

今できることは三密を避け、うがい・手洗い、マスク。

基本的なことばかりだけど、できることはこれしかない。

あ、COCOAもインストール、もちろんしてあります。

 

学校再開して、こぢろが多少なりとも落ち着いてくれたのが何よりうれしい。

野球もいろんな制約があるけれど、練習が再開されたのもほっとしました。

そんな毎日です。

 

長引く梅雨とその湿気に気持ちはますます重くなりがち。

そして最近コロナ以外で大きく取り上げられているALS患者さんに対する

嘱託殺人事件の報道。

これがまた、さらに私の気持ちを重くします。

一昨年、逝った義母の死のことを思い出すからです。

 

自分のことは自分でやりたい。

人に頼ることを良しとしない。

人に世話をされることがとても苦痛(恥)と感じる誇り高き人。

そういう人がいるんです。

亡くなった女性がそうだったかはわかりませんが、報道を見るとおそらく

義母と似たタイプの性格だったのではないかな、と。

 

それがいいとか、悪いとか、そういう風に感じさせる社会が悪いとか

そういう話ではなく・・・

その人の価値観。生き方。考え方。ですよね。

いろんな思いがぐるぐるするので苦しいです。

 

今一度、私自身あやふやな「尊厳死」と「安楽死」について、まとめておこうと

思いました。

未来の自分のために。

 

尊厳死と安楽死の概念は「別物」

 

尊厳死→延命治療を差し控え、十分な緩和ケアを施されて自然に迎える死

安楽死→積極的に生を絶つ行為

 

日本では、安楽死は認められておらず、それは「自殺ほう助」となり犯罪。

日本で安楽死の正当性が問われた裁判は1991年東海大学病院で末期がん

の入院患者への薬物投与。

そこで、積極的安楽死として許容されるための4要件が示された。

 

1.患者が耐え難い激しい肉体的苦痛に苦しんでいること

2.患者の死が避けられず、その死期が迫っていること

3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと

4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

 

ただ、肉体的苦痛だけではなく、主に家族への負担を強いることや社会参加の

機会が奪われることや、自分の生きる意味や価値を見失うことなども、本人に

とっては耐え難い苦痛である→どうする?

 

ただ、日本はもともと尊厳死についてすら自由にできる国ではなく

そこをすっ飛ばして安楽死の法整備とかは危険だというのが一つの

大きな流れのようです。

 

一方で、そもそも日本という社会が病気の人、生活弱者に対し十分なサポート

体制や、周囲の理解があればこのような議論にはならないという考えもあります。

 

「死にたいと思わせるのではなく、生きたいと思わせる社会を作る」

 

ということなんだと思います。

それはきっと、理想的な考え方であり、そうあることが誰もが生きやすい社会と

いえるのでしょう。

 

思うのですが・・・

 

それならば、じゃあ、私は義母に対してどうだったのか?

入退院を繰り返していたあの9カ月。

なんとか生きたいと思わせる方向でケアができないかと頑張っていたのですが

義母は常に「迷惑を掛けてすまない」「私がこんなだからあなたたちが迷惑」という

気持ちが消えなかったようです。

 

これは、もう、社会がどうこうというより本人の価値観、プライドの問題・・・

と、思おうとしていたのです。

私は。

 

そう思わないと、自分が救われなかったからです。

 

もっとできることがあったのでは?

もっとうまい言い方があったのでは?

そう思わせないようにできることがあったのでは?

 

という気持ちと

 

いや、そうじゃない。

きっと何を言っても、何をしても、どうしても、義母が抱える

私たちに対する「負い目」を軽くすることはできなかったはずだ。

 

という気持ちが

 

常にぶつかり合っていました。

それが、1年以上経ってようやく、薄らいでいたところにこのニュース!!

 

また、私の中で葛藤が生まれています。

 

あの時の私の発言は正しかったのか?

あの時の私の態度は?

追い詰めてはいなかったか?

言葉の裏の義母の本当の気持ちをわかってあげられていなかったのでは?

 

考えても考えても正しい答えなど出るわけがありません。

当人はもう死んでしまったのだから。

そして、きっと・・・彼女の本心を私に語ることは・・・きっとなかったと思います。

 

そんなことを考えてしまい

つまるところ、尊厳死や安楽死なんて大きなテーマではなく。

夫の母親。という極めて自分と近しい人の本心すら・・・追い切れてなかった自分

に行きつくだけです・・・

 

普段はこういうネガティブな感情に、蓋をしているというか

生きていく上で、割り切って過ごしていかなければいけないと思う

ドライなタイプです。

また、こんなことをずっと考えているほど真面目でもありません(苦笑)

 

でも、時々蓋がぱかっと空くんですよね。

そして、自分自分の死についても考えます。

 

人生100年時代とは言え、誰もが健康で寿命を全うできる保障は

どこにもなく。

また、長生きだけが幸せではないはずだと。

そう思えるのは私が「まだ若い」からなのでしょうか。

 

未来の自分が、自分の死に対して静かな気持ちで受容できるように

生きていきたいなと強く思います。

 

が、すぐ忘れるのでブログに書いてみました。

 

人はいつか死ぬ。

そして、生きている人の人生は続く。