これは、2008年4月12日に記述したものです。
義母との確執は、子供が生まれ2年後に一気に激化するのですが、この頃の私はそれをまだ知らない・・・。
らかった寝づわりがだいぶ落ち着いてきた3月の後半。
ダンナ母が留守中に預かった荷物を持ってきてくれた。
「たまごろうさん、最近の調子はどう?」
「はい、先週くらいまでつわりがひどくて・・・しんどかったんですけど、まぁそれ以外は特に心配になる症状も出てなくって子供の方が順調だと思います。」
「そう、まぁ、つわりは誰でも通る道だから・・・子供さえ元気なら・・・ね」
カーーーーン。心の中でゴングが鳴る。
(ほぉーーー。そう。子供さえ元気なら・・・と来たか)
表面上はにこやかに、右から左に受け流す。
「そうですね。ま、妊娠は病気じゃないし。(精一杯の皮肉のつもり)まぁ、これからも子供が元気に育つように気をつけます」
フラウ2007年12月号は「出産特集」だった。
同僚が「これ、よかったら読んだら?」と持ってきてくれたのだ。
その中で一番私が共感したのは蜷川実花のインタビューだった。
「日本の妊娠本を見ると・・(中略)・・掲載されているエピソードは全部美談だし、『妊婦とは体内に生命を宿した神聖なもの。子供さえ安全に産めればそれでよし。』という感じがどこかにあってなんだか読んでいてイライラしました。あまりにも母であることのみ求められている気がして、なんとなく『女としては終わった感じ』が突きつけられるんですよ」
私の中のイライラ感もこれなんだ。そう思った。
よき母であること、よき母になることを美徳とし、自分の楽しみや自分の時間を確保しようとすることが悪であるかのように見なされる。「母親としての自覚がない。」「親になるというのは甘いものじゃない。」「子供が優先になるのは当たり前。」などなど・・・。
すごく正しい意見だと思う。正しい意見だと思うけど、私にはできない。
何もかもと欲張るつもりはない。
ただ、「子供のために自分の何もかもを犠牲にする」ことはできない。
なぜなら、そんなことしたらきっと将来子供が自分のもとを離れていくときに「私は自分の楽しみをすべて我慢して育ててきたのに」と言い出しかねないからだ。
子供はいつか離れていくもの。親より大事なものを見つけて巣だっていくもの。
それは私がそうだったように。
その時、きちんと送り出していけるように、子供を育てながら片方では自分の世界だって保ち続けていなければいけない。とはいいながらも、子育てにほとんどのエネルギーを使うのだろう。
結果的にそうなったら、それはそれでも構わない。
ダンナ母のように最初から「子供さえ元気なら」とは思えないだけだ。
だって、自分がつらいのもイヤだもーん。>ダメ妊婦ここに極まれり。
ということで、そんな一言を無神経に放ったダンナ母には、赤子が産まれても当分抱かせてやんない。と、密やかな復讐計画を立案中。