大宮公園北側の入口付近に古い門柱がある。
すぐ傍に、大宮公園事務所が2005(平成17)年に設置した看板『歴史解説NO.13』があり、それによるとこの門柱は1921(大正10)年に開業した【遊園地ホテル】の入口にあったものとの事で、当ブログの前回記事「大宮公園に紡がれた体育館の歴史」でもほんの少しだけ触れさせてもらっていた。
歴史解説NO.13
実を言うと、遊園地ホテルについては前からかなり気になっていて。
せっかくなので今回は遊園地ホテルを少しだけ掘り下げてみることにした。
まず、当時の大宮を知る事が出来る資料として、1928(昭和3)年発行の『大宮』をチョイス。
早速調べてみると、遊園地ホテルは当時(昭和初期)の大宮で6社しかなかった「株式会社」だったそうで、【株式会社遊園地ホテル】と記載されていた。
当時の広告
『大宮』,中央新聞大宮通信部,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1109011
そこで、遊園地ホテル開業同年に発行された『日本全国諸会社役員録』を見てみると【大宮遊園地株式会社】を発見。
商業興信所 編『日本全国諸会社役員録』第30囘,商業興信所,大正11.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/968834
これによると、取締役の筆頭(現在でいうところの社長だと思われる)は【小口槇太】氏との事。
小口槇太社長とはいったいどんな人物だったのか。
1927(昭和2)年発行『国民自治総覧』に小口槇太氏の紹介があったので年代順に要約してみる。
東京毎夕新聞社 編『国民自治総覧』,東京毎夕新聞社,昭和2.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1268828
①合資会社岡谷製糸会社第一支店大宮舘 舘主
明治から昭和にかけて大宮にあった三大製糸工場のうちのひとつ、岡谷製糸工場大宮舘。
当時の岡谷製糸工場大宮舘
熊谷利三郎 編『大宮案内』,実業新聞社,明43.12.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/763675
長野県の岡谷製糸会社の第一支店として、1904(明治37)年6月大宮に誕生した大宮舘の、経営の一切を任された舘主として現地に着任。
『大宮市史 第4巻 (近代編)』に記載された内容もふまえると、着任当初は釜数が381だったものを最盛期には670余りまで増加させ、工員数も女工が382名だったものを男女工1100余名を雇い入れるまでに工場を発展させたとの事。
『大宮市史』第4巻 (近代編),大宮市,1982.3.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/3007303
ちなみに三大製糸工場の残りの二つは、コクーンシティでおなじみの片倉工業さん(当時は片倉製糸工場)と、現在は大宮区役所前の公園「山丸児童公園」で名前が残る山丸製糸工場さん。
なお、その後は製糸業の衰退もあり、岡谷製糸工場大宮舘は三栄製糸工場に再編成するも昭和10年代頃に閉鎖され、同地は国鉄の鉄道病院、さいたま市営桜木駐車場を経て、現在は大宮の新しいランドマークになるために生まれ変わる準備中です。
新ランドマークの詳細は以下の埼玉新聞さん記事をご覧ください。
②大宮町長(1918(大正7)年~1928(昭和2)年)
大宮町会議員を数期務めたのちに町長にまで上り詰めておられたとは。
当時の製糸工場の有力者が色々地域貢献されたとは聞いたことがあったけど、まさか町長までされていたとはつゆ知らず。
ウィキペディアの『大宮町(埼玉県)』ページの歴代町長にもちゃんと名前があった。
その他は、
③大宮購買組合理事
④埼玉県製糸同業組合副組合長
⑤日本消防機製造(株)社長
⑥財団法人成均学園理事長
(現在の埼玉県立大宮高等学校の前身である成均学園高等女学校)
など多岐に渡り活躍をされたようだ。
ちなみに、かの渋沢栄一氏も遊園地ホテルに来られた事があったようで、『渋沢栄一伝記資料』によると1922(大正11)年7月9日の大宮町青年団主催「時事講演会」にて演説され、その後は小口槇太氏の製糸工場を参観されたとあった。
竜門社 編『渋沢栄一伝記資料』第44巻 (社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 第15),
渋沢栄一伝記資料刊行会,1962. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2996045
話しが逸れたので遊園地ホテルに戻るとして、実際はどんなホテルだったんだろう。
古い絵葉書等でも見る事が出来る3階建ての洋館(この記事の最初の門柱の説明看板に画像有り)以外にも建物があったのかもしれない。
そこで、ホテルが存在した期間の空中写真を確認してみると、1961(昭和36)年の空中写真が見やすかったので分かりやすく赤枠で囲ってみた。
出典:国土地理院撮影の空中写真(1961年撮影)を一部加工
ちなみに一番西側の建物の2本の赤矢印の黒い丸の部分は、説明看板の洋館のこの屋根の部分だと思う。
大宮公園事務所『歴史解説NO.13』の一部を加工
そうなると、残りの建物はなんだろう?
『庭園』という1921(大正10)年の雑誌に「模範的大宮遊園地の計画」という気になる記事があって。
『庭園』3(6),日本庭園協会,1921-06. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1547175
この記事によると、町長の小口槇太氏を中心とした有志で資本金を用意し、氷川公園(大宮公園)内に関東一の大遊園地を設けようと計画していたそうで、日本の公園の父と称される林学の本多静六博士と田村剛博士へ設計を依頼したとの事。
そしてこの時に立案されたのが「氷川公園改良計画」といって、昭和に入りこの計画に沿って、競輪場、野球場、舟遊池、動物園、児童遊園や、英霊殿(現在の埼玉縣護國神社)などの公園整備が進められた。
また、この時に立案された設計の中には、旅館、食堂、浴場、演芸場等の計画も存在。
詳細としては「舟遊池の東北側に3階建ての洋館と、同じく3階建ての日本館。貴賓館、離れ座敷数棟、その他珍しい趣向の建物を設け、洋館の後ろには珍花や果樹を培養」とあった。
きっとこれが遊園地ホテルの計画内容だったのだろう。
この雑誌が出た当時は、3階建ての洋館の3階部分は宿泊が出来るホテルとして、2階は大食堂。1階は1000人以上収容出来る演芸場として基礎工事も始まっていたらしい。
そういえば鳥瞰図や商工案内図で牡丹の記載があるのは、洋館の後ろに計画していた果樹や珍花が牡丹になったのかな。
国際日本文化研究センター所蔵 大宮1934(昭和9)年発行より一部加工
大宮商工並ニ名勝案内地図 1934(昭和9)年発行 より一部加工
また、遊園地ホテルの完成後の詳細としては『全国都市名勝温泉旅館名鑑』に面白い情報があった。
※遊園地ホテルの列の「大宮公園内」の下の漢数字は順に「客室数」「客室畳数」「宿泊料」
日本遊覧旅行社 編『全国都市名勝温泉旅館名鑑』昭和5年版,日本遊覧旅行社,昭和5.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175158
これによると、遊園地ホテルの客室は和室13部屋と洋室4部屋となっており、客室畳数は大宮旅館内で堂々一位の221畳。
他の旅館の宿泊料(室料)が2円前後の中で全部屋均一の5円。
大宮の旅館施設の中でも一流どころだったのだろうなあ。
というのが分かった。
ちなみに余談だけど、この旅館名鑑の記載店舗で現在も存続されているのは、今は旅館ではなく結婚式場・宴会場として存続されている【清水園】さんのみ。
昨年、新館移転計画のため旧館を閉館されて、2024年夏新館オープン予定に向けて準備を進められています。
詳しくは清水園さんHPにて
月日は流れて。
その役目を終えた遊園地ホテルは1967(昭和42)年に取り壊しとなり、跡地についてはご存じの通り、埼玉県誕生百年を記念して整備された【埼玉百年の森】となっている。
そして。
その後さらに50年が経ち、2019(平成31)年に検討委員会から「大宮公園グランドデザイン」の最終報告書が公表された。
グランドデザインとは、1885(明治18)年の開園以来130年以上の歴史がある大宮公園の歴史的価値や日本的風景を継承するため「次の100年先を見据えた公園整備の基本的な考え」との事。
奇しくも遊園地ホテルがあった場所は《文化の森》ゾーンとして「サービス拠点として明治・大正期を感じられる料亭や宿泊施設を整備」とあった。
この先の未来で大宮公園内にまた。
【遊園地ホテル】のような宿泊施設が出来るのだろうか。
それとも市営桜木駐車場跡と同様に、大宮駅付近にだけ宿泊施設やランドマークが増えるのだろうか。
それこそ、あの頃の小口槇太氏達が考えたような、誰もが期待してやまない現在の大遊園地が大宮公園に出来ない限りは、採算が取れる見込みもないまま計画だけで終わって、何も先に進むことはないのだろう。
大宮公園内にあった温泉旅館【遊園地ホテル】。
当時の繁栄していた姿を、一度で良いから自分の眼でその姿を見てみたかった。
ではまた。