今週の一枚は「カボチャ」




カボチャの花言葉は「広大」



そして、野菜には野菜言葉というのがあって、カボチャの野菜言葉は「広い」「大きい」「包容」だそうだ。



ここでジョージ、カボチャにすらある大きな包容力について考える。



俺は果たして、人を包み込めるような包容力はあるのか?



ミスターおチョコと異名を取るほど、器の小さい俺だけど、しかし、かなり我慢強い人間だとは思う。とにかく怒らない。女性からの罵詈雑言、この世にあるモラハラというモラハラの全てをナノバブルのシャワーヘッドから降り注ぐお湯のように毎日この身に浴びてても、それでもなんとか耐えに耐えて、揉め事を起こさぬように生きて来た俺。



しかし、それでも女性の涙には弱く、涙の3分前には鬼滅の刃の鬼殺隊が鬼舞辻無惨に抱くような憎しみの言葉を女性から浴びながらも「いいんだよ、怒らせた俺が悪かった。また明日から頑張ろう!」そう言える男なのだ。



しかし、また3分後には女性から「このカス!役立たず!3回回って死ね!」



そう言われても怒らない男が俺。



もしかしたら、俺の器は岐阜県、瑞浪市の稲津町小里稲荷神社にあるギネスにも認定された大皿「瑞祥」よりも大きな器を持ってる男かも知れない。



しかし、昔の俺は本当に器の小さな男だった。



好きな女性の過去が気になって気になって夜も寝れない時があったのを正直に告白する。



今思えばなんて傲慢な考えだと思う。



俺以外の人間は俺の為に生まれて来たわけではないのだ。



だから、みんな過去があって当然だし、マカロニのような真ん中が空っぽのような恋をたくさんして来てるのが当然なのだ。



恋多き女性の何が悪いのか?



今なら本当にそう思う。



しかし、まだツボミのままのチェリーボンバイエだった頃の俺は女性の過去について本当に悩んだ。本当に馬鹿みたいな時間だった。



その後に水商売の女性とも出会ったし、風俗嬢の女性とも知り合った。シングルマザーの人もいた。男性に無理やり性暴力を受けた過去の人もいた。でも、みんなみんな普通の女性であり、人より何も劣ってない。



誰だって失敗はしたくないが、間違った人と付き合ってしまうことだってあるのだ。だから、その後からやり直せばいいだけだ。過去は絶対に消せないけど、それでも、それが致命的なミスになるわけではない。



だから、それを受け止めれる大きな心の人間にならなければならない。



人の過去に拘る人間はさぞかし人に誇れる人生を送って来たのだろうな?



人の過去に拘る時点でカボチャの包容力にすら負けてるぞ。



しかし、そんなことを書いてる俺も小学校の時に足の不自由な小さな女の子を守ることが出来なかった。



他の男子が歩き方をマネして笑ってたのを、止めることすら出来なかったのだ。なんと情けない男なんだ。



こうやって自分を見つめ直すと、俺こそがカボチャの包容力にすら届いてない小さな小さな人間なのだ。




でも、自分の器の小ささを認識することからが第一歩だ。




カボチャの花言葉を調べて我が身を知る





今日はそんなことを思った今週の一枚


 

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