最近たまたまYouTubeで、ガンになってる女の子の動画を見た。


見てたら、ジョージの涙腺ガバガバの涙でビチョビチョで思わず応援コメントをしそうになって、ハッと我に返った……



「待てよ…これが、もし40代の髭面のオッサンが泣きそうな顔してガンになったのを発表してたとしたら、俺はコメントしようとしたのか?」



否、そもそも髭面のオッサンの動画など見ようとすらしてなかっただろう。


病気の人を可哀想だと思う心はあるが、それを表立って応援するか否かは人によってだ。この心を残酷だと自分でも思うが、これが現実だ。



そもそも、俺は人のブログやYouTubeチャンネルに自分からコメントをしたことはないのだ。それなのに、この女の子の動画にコメントを残そうと思ったということは、よっぽど心を動かされたのだと思う。


しかし、架空の髭面の40代のオッサンが、この女の子とまったく一緒の表情、言い方で病気の報告したとしても、俺の心はコメントをしようとまでは動かんのだ。



ジョージ、こんなところで自分の残酷さを知る。



でも、この偽りのない本心を隠して偽善者ぶりを発揮するわけにはいかない。女の子とオッサンとでは、明らかに世間の対応は違うのだ。話もせず、動画を見るだけの関係だったとしてもだ。



動画を見るだけでも、人生の大切な時間を髭ダルマのようなオッサンの涙に使うわけにはいかんと、俺の中のリトルジョージが叫ぶ。



でもね、これが残酷な現実だと思う。



それはつまり、人に応援されるには、まずは見た目がかなり重要だということだ。



俺が今、18才の可愛い女子高生ならば、人生をかなり有利に生きる自信がある!


まずは全てのSNSアカウントを開設し、YouTubeでは手始めに自己紹介動画とメイク動画をさりげなくアップし、Xではプロフィールに自分のYouTubeのチャンネルを貼り付けてからの、有名人インフルエンサーをフォローしまくり、世間の大きな事件をリポストしまくりでリプもしまくりでYouTubeを宣伝して収益化を成し遂げ、その後は毎朝スッピン寝起きライブを学校に行く前にして軽く投げ銭でひと稼ぎ。


TikTokでは同級生と学校で踊りまくり動画と学校の先生に可愛いイタズラしちゃった動画を上げ、TikTokライブではコメント見えないフリして顔面アップでドキドキさせ投げ銭を誘導して小銭稼ぎ。インスタでは母親に作ってもらった弁当と食事の写真を自分で作ったと偽り毎日投稿。


今考えるだけで、これだけ稼げそうなことが思い浮かぶ。あっ、後はYouTubeのメンバーシップもあるか。


もう18才の可愛い女子高生だと、金儲けのアイデアが次々と湧き上がってくる。見た目が可愛いだけで、最初のスタート位置からオッサンとは違うのだ。



しかし、これが架空の40代の髭面のオッサンだとどうだ?


まずスタートから絶対に躓く可能性が高い。



YouTubeも必死にネタを考え毎日投稿し、編集も凝りまくり、それでも再生数は100再生もいかない。悩んだ末に、どの層にも受けそうな大食いしたり、インドア派なのにアウトドアブームに乗っかろうとキャンプ行ったり車中泊したり、さらにはヒカキンが謝ってたからと、自分は何も悪いことしてないのにマネしてスーツ着て謝罪動画を上げたり、ついには思い詰めて、事件現場に来てるテレビカメラに映ろうと突撃をしようとまで考える始末。



しかし、そこまで悩んでも努力してもYouTubeの収益化は遥か遠い彼方…



そして、最終的には、どこも悪くないのにガンになったと涙ながらの報告動画までアップしてしまうのだ。



こんなオッサンの動画、いったい誰が見るのか?



しかし、これが世の中だ、これが現実なのだ。


見た目だけで、こんなにスタートから差がついてしまう。なんて残酷なんだ。これがこの世界か。



しかし、生きねばならん。



まさにリアルな、



「落ちぶれたオッサンはどう生きるか?」



なのだ。



俺のブログだって、明らかにオッサンで17才の女子高生のブログではないし、内容だってほとんどが小難しい訳わからん考察の内容だったり、お下劣な内容だったり、明らかに世間の流れをまったく無視した記事内容ばかりだ。


それなのにだ、こんな人間の記事にいつも、いいねを付けてくれる人がいる。


ゴマをするわけではないが、本当に神様なのではないかと思ってる。


俺が、いいねを付けるならば間違いなく若い女性の投稿にいいねを付けたくなる。自分から付ける場合だ。


俺は相手からいいねを貰ったら、お返しにいいねを返してるが、自分からは付けない。



それは、なぜか?



相手から何も反応がないと少なからずショックを受けるからだ。このSNS時代に、今だに、そんなおちょこ並みの、か弱い心臓で過ごしてるのだ。


だから、自分からいいねを付けるならば傷ついてもいいように厳選したい。こちらから意気揚々といいねを付けて、髭面の下半身をボリボリかいてるようなオッサンに無視されたら本当に辛いからだ。


それならば、無視されるのが当たり前の若い女性の方がいいと思ってしまう。


いいねを貰ったら、いいねを返す。これならば、一旦は相手に受け入れられてるから、俺のノミの心臓でも傷つかない。



だから、俺みたいな人間に優しくしてくれる人には感謝しかないのだ。



例えば、生きるか死ぬかのギリギリの状態で、まったくの他人の若者と老人、どちらかしか助けれないとなったら、みんな悩むだろうが、ほとんどの人は若者を助けるだろう。



どんな人でも、どんな状況でも、損得勘定はあるし、残酷な現実はあるだろう。



誰に対しても平等な人などいないと思う。



誰の心にも現実的な残酷な心はあるのだから、それに目を背けずに生きねばならない。


残酷な扱いを、される可能性のある人間ならば、常にそれを覚悟して生きねばならない。



だって、人に期待しすぎたら残酷な扱いを受けた時に傷が大きくなるだろ?



だから、俺はいつだって見捨てられる覚悟をして毎日記事を書いてる。



それでいいんだよ。



それが人生さ。




あれ、なんだか今日はスマホの画面が滲んで歪んで見える夜だな、早く寝るか…