人は人の一部分しか見ない。



いくら、正しい事を普段からしてたとしても、ちょっとの気の緩みで道端にゴミでも捨ててしまうと、それを見てた人からは、


「あの人、ゴミを投げ捨てた、ろくな人間じゃないな!」


そう思われるのは、確実だ。


昔、島田紳助もテレビで言ってたが、布団を畳むのでさえ普段からキチンとしなさいと、人は一部分を見て判断するから、布団がだらしなく畳まれてると、そこだけ見られて、全体もだらしない人間と判断されるよと、そんな事を言ってた。


だから、正しい事をするという事は、継続する事、すなわち最後まで正しさを貫くということだ。



俺がした悪い事で、警察のお世話になったことはスピード違反一回、信号無視一回、後は一方通行道路の逆走だ。


ここ10年以上は違反はしてないから、ゴールド免許ではあるが。


信号無視は運転中に夜空をつい見てしまった時だ。


「わぁ〜綺麗な星空、キラキラして宝石箱みたいだ!」


そう思ってたら、目の前の赤信号を見落として、信号無視をしてしまった。


すると、俺の後ろの車がキラキラと赤い宝石のように輝き出して、俺はパクられた。真後ろにパトカーがいたのだ。


夜空見上げて、後ろのパトカー見ずだ。


ズルい、夜だからまったくパトカーとは分からなかった。しかし、ズルくはない。常に信号を守ってれば済む話だった。


一方通行の逆走は、免許を取って初めての遠出の時だ。田舎だからほぼ1車線しか走ったことないのに、いきなり3車線あるような街に走りに行った時だ。


右折する時、交通量が多くて、なかなか右折出来なかったら、後ろから「早よいけーボケー」と言うようなクラクションを鳴らされたのだ。


俺は、



「チキショー、えぇい、ままよ!」



まるで、崖を目の前のしたアクションスターのような覚悟を決めたセリフと共に、俺は慌てて右折して小道に迷い込んだ。


そこにたまたまパトカーが休憩しててパクられた。警官に「よくパトカーの目の前に飛び込んで来たね」と驚かれた。


パトカーは隠れもせずに俺の視界に入る場所にいたのに、俺は慌ててしまって、パトカーがまったく視界に入ってなかった。


俺はいつだって命知らずの冒険者だ。


スピード違反は高速を気持ち良く走ってた時のことだ。風と一体となってた。この世の全ての風が俺と共に一体となって、俺は当時の愛車シルバーロンリネス号(軽自動車)と共に高速道路を疾走してた。


俺は意気揚々と高速の出口から下りて一般道を走った。まだ風の余韻が残ってる。


風の囁きがまだ聞こえる。


木村拓哉の日産のCMのように、



「行っちゃえ、ジョージ」



そう、風の声が聞こえた。


ジョージ、しばし一般道というのを忘れて走ってたら、スピード違反の取り締まりやっててパクられた。


30キロオーバーで初めての略式裁判というのを受けた。これはめちゃくちゃ面倒くさかった。


このように、俺は3回ほど警察のご厄介になったが、他は違反は無しだ。


ほとんどが正義の人だが、しかし、一回でも違反がある限り、俺は一生、聖人とは呼ばれない。


一回でも正しき道から足を踏み外すとダメなのだ。



しかし、ずっと正しき道を歩んでる人なんて本当にいるのか?



例えば、動物を殺生した末の肉食など、いくら「命を頂いてる」と自然の摂理のように正論ぶっても、人間は完全なる肉食ではないのだ。野菜、果物だけ食べても生きていける。


すなわち、動物を殺して食べてる時点で厳密には正しい道から外れている。


ということは、正しき道を歩くとはかなり困難な道のりだと言える。


俺の人生は歴史に残るような人と比べると本当にショボいエピソードばかりだ。ビートたけしは愛人を守るために集英社を襲撃するという、芸能史に残る犯罪を犯したが、俺はスピード違反やら信号無視、一方通行の逆走だ。


あえて、悪そうな言葉で俺のエピソードを書くならば、小学生の時の帰り道に家の近くまでトラックに乗せてもらおうと、トラックの前に爆竹を投げ込んでトラックを襲撃したテロ行為、そして、就職の面接の為に乗り込んだ大阪の大企業の面接会場にて、



「親に言われたので志望しました!やる気はありません!」



と、声高らかに宣言した、我が自由解放宣言。



こう書くと、歴史に残る大事件のように見えるな。



しかし、俺の人生の足跡はショボくてしょうもない足跡ばかりだ。


でも一生懸命に生きて来た。


情けないと笑われるかも知れない。でも、その時その時に精一杯に考えての行動だ。


こんな名も無きの無名の人間だが、少なくとも悪いことせずに正しく生きたいと人生を歩んで来たが、それでも悪いことをせずには生きれなかった。


正しき道を歩むという事は、犯した罪をも抱きしめて、それでも正しく人の為に生きたいと、もがきながら生きる事かも知れない。



正しき道を歩むとは、正しく生きたいという姿勢を持ち続けることなのだと思う。