今日は私の誕生日だった

いろいろな人からおめでとうのメッセージをもらった

小学校のころからの友達からももらった

友達は親類や仕事のことで更に大変になっていた

この夏で仕事を減らしてもらうと言っていたのに

結局年内まで正社員で働くことになったそうだ

会えるのは来年年明けだろう

もしかしたら、春まで働いて欲しいとか言われるかもしれない

いつ会えるのだろう

すぐそばに住んでいるのに

友達はブツブツ言いながらも結局は、やる

真面目で親切で優しくて責任感がある

中学も一緒だった

学級委員や生徒会とか一緒にやった覚えがある

勉強もスポーツも頑張っていた

他にもう一人仲の良い友達がいて

3人で仲良しだった

いつも3人で下校した

他の二人が勉強するので私もつられて勉強した

勉強嫌いだったから彼女たちがいなかったら

私の成績は悪かっただろう

もう一人とはとっくに連絡がつかなくなっている

地元に住んでいる同級生たちは半分以上が引っ越している

亡くなった男の子もいる

彼のお母さんは女医でお父さんは大学教授だった

そのころ珍しいセントラルヒーティングの家に住んでいた

小学校の放課後は男女いっしょにみんなで遊ぶこともあった

缶蹴りしたり校庭を走り回ったり

彼も参加していた

しかし彼はその後勉強していたのだろう

中学は慶応日吉に進学した

友達に言わせれば

ヤマは老けてた

そうだ

皆で遊んだあと猛勉強していたのだろう

医者になる予定だったのかもしれない

しかし彼が高校性のころ

お父さんが大学で不祥事を起こし新聞沙汰になった

お母さんの病院に行く患者も減り

彼も高校を留学していた

彼は家を継がず専売公社に就職した

30代半ばのころ中学のころの同級生たちとクラス会みたいなことをした

男女10人くらい集まったと思う

店は新宿のイタリアンだったと思う

ヤマが店長だった

そこにいた男子は他の小学校から上がってきたので

ヤマのことを知っているのは女子だけだった

ヤマが店長をしていたから一人の子がその店にしたようだった

ヤマ、安くしてよね

と言っていた

途中から元暴走族だった男子が参加した

別人だった

彼は自分で

変わったでしょ

と笑いながら言っていた

リーゼントだった髪の毛は73

眼鏡をかけて落ち着きのある中年おじさんになっていた

オーストラリアのメルボルンの大学で日本語を教える教授になっていた

彼が一時帰国したからこのクラス会めいたものが開かれたそうだ

奥さんは真面目な感じの人だった

メルボルンの英語学校で知り合ったらしい

彼は中学の時の試験で私の隣の席だった

休み時間に皆、必死に勉強しているのに

彼はぼーっとしていたので

勉強しなくていいの?

と聞くと

いいんだよ、勉強なんて試験中にすればいいんだ

とか言っていた

私のことを

犬!お前、犬に似てるな、俺の後輩にそっくりだ

と犬呼ばわりされたのをよく覚えている

彼は高校も大学付属の高校に進学して暴走族も続けていた

高校生のころ中学の同級生男女10数人で真昼間、新宿のパブで水割りを飲んだりした

その頃はウイスキーが流行っていた

私はコークハイを飲んだ

食べられなかったものが食べれるようになった

おつまみに出た焼きピーマン

すっかりピーマン好きになった

どう見ても高校生なのに店はお酒を出していた

それも高校一年生だ

タバコを吸う女子もいた

特に不良の集まりではない

皆普通の高校生だった

女子と話せなかった男子が普通に話してきて驚いたりした

まだ大学受験は先なので皆楽しそうだった

暴走族の彼も来ていた

高2になってからも何回か皆で集まったが

受験のころには無くなり自然解散した

それ以来の集まりだった

帰りは皆バラバラの方角だった

地元に住むのは私ともう一人の女子だけだった

あれ以来、皆にはまったく会っていない

仲良しの友達たちはその時は都合が悪くて参加せずにいた

友達は今も地元に住んでいるので地元に住む子には道で偶然あったりするらしい

ヤマが自殺したという話は道であった同級生からきいたそうだ

女性問題で自殺したそうだ

暴走族が大学教授になり

かたや慶応にいったのに店でウェイターをして若くして自殺

行方不明の仲良しだった友達はドラマーをしているらしい

年賀状も来なくなった

今も付き合いがある小中の同級生は仲良しの友達一人だけだ

家が店を営んでいたり町工場をしていたしした子たちも

店がなくなっていたり町工場も無くなっていたりしている

子供のころは東京に住んでいる人は皆東京出身なんだと思っていた

親が店や工場をしていた子たちはもともと下目黒に住んでいたのだと思う

地主の娘もいた

彼女の家は大鳥神社の近くで豪邸だったがビルになった

山手通りにパン屋さんをしていた子の家も大きなビルになっていた

下目黒は目黒区でも下町と他の柿の木坂から来た先生から言われて

その発言がお母さんたちの間で不評を買っていた

ただし下目黒6丁目は高級住宅街で私たちの学区域ではなかった

あそこは芸能人が住んでいた

昔の有名歌手、二谷友里恵の両親と郷ひろみ

NHKの寮もあった

下目黒3丁目から1丁目は商店街や工場地帯だった

今も商店街はあるが工場は無いのではないかと思う

今年の春、目黒川の桜を見に目黒駅から行人坂を下って行ったが

雅叙園の桜は満開だったのに目黒川沿いの桜はあまり咲いていず

そのまま道をあるいて山手通りに出た

山手通りは道路の真ん中に柵があり

信号も位置がずれていて渡りずらくなっていた

その先の商店街も少し変わっていて中学の同級生の店はマンションになっていた

近くに住むお父さんが弁護士をしていた友達の家もマンションになっていた

そこは鯉が泳ぐ池がある庭があり松の木もある立派な日本家屋だった

お風呂屋さんも下目黒には何件があったが私が高校生の炉にはとっくにビルやマンションになっていた

人も町も変わっていく

道路でさえ変わる

この先

どれくらい変わるのだろう