◇大山倍達◇ | omekoさんのブログ

◇大山倍達◇

大山倍達(おおやま ますたつ、1923年(大正12年)7月27日(旧暦6月4日) - 1994年(平成6年)4月26日)は、男性武道家・空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。極真空手十段。別名:マス大山。韓国名は崔 永宜(チェ・ヨンウィ、)。韓国の戸籍では1922年7月27日生まれとなっており、1923年生まれでは新暦と旧暦の誕生日が一致しないため、実際の生年は1922年と推定される。
1970年代に週刊少年マガジンに連載された劇画『空手バカ一代』でも、主人公として取り上げられた。


生涯

父・崔承玄と母・金芙蓉の6男 1女の第4子として生まれた。1964年(昭和39年)に日本国籍に帰化した後の日本名が大山倍達。1964年(昭和39年)日本国籍を取得/帰化している。一時期、崔猛虎・大山猛虎・大山虎雄・崔倍達などと名乗っていた。
幼少期は満州国と日本の植民地であった朝鮮半島で育ち、16歳で日本一の軍人を志し、山梨県の山梨航空技術学校(現日本航空高等学校)に入学。きつい肉体労働でアルバイトをしながら学校へ通い、当時難関であった陸軍士官学校へ入学する為の受験勉強も少ない時間の中で行うという苦学生の身であった。1938年(昭和13年)9月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶ。
山梨少年航空技術学校卒業後に陸軍士官学校を受験するも失敗、挫折する。だが、当時拓殖大学学生であった木村政彦が、柔道界最高の栄誉であった天覧試合優勝を成し遂げた事に感動し、1941年春、同じ拓殖大学に入学。同大学では司政科に在籍して、政治家を志す。石原莞爾主催の東亜連盟に参加する等の活動をするも、同年末に大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。在学中のまま少年兵として徴兵されるという大きな壁に直面し、政治家の志も挫折する。終戦前に海軍の「特攻隊」に志願したが終戦を迎えて出撃ができなかったという話があったがそのような事実はなかった(これは「
空手バカ一代」の話からだった)。
早稲田大学高等師範部体育科(のちの早稲田大学教育学部体育専修)中退[注釈 1]
。終戦後は千葉を中心に民族運動に参加したとする説もある。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。
1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である
智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。