ある日突然巨大な虫になってしまったグレーゴルの悲劇から、「変身」する悲劇を「死亡」する悲劇と天秤に掛けて考えてみました。というのも僕は2年前に大切な妹を突発性の心筋梗塞で亡くしたからです。ある人が「変身」するのと「死亡」するのとでは、その後の周りからの扱われ方だけでなく、本人が持てる幸せの在り方も正反対になる気がします。


まずグレーゴルは、とても真面目で勤勉な人だったのに姿が変わると突然周りから酷い扱いを受けるようになる。それはなぜだろうと考えてみました。おそらく家族はお金を稼いでくる存在だけが必要なのであり、グレーゴルの存在自体を必要と思っていなかったからなのかもしれません。一方でグレーゴルは割と自由なので、自分が虫として生きることに受け入れさえすれば幸せになれるのではないかと思います。そもそも彼がなぜ虫に変身したのかを僕はずっと気にしていたのですが、彼自身はそんなことを一切気にしなかったのだろうと思います。グレーゴルは物理的に変身する一方、家族は精神的に変身する。こうしてグレーゴルの想いと家族の想いが交差せずにすれ違う感覚は妙に歯がゆいと感じました。


一方2年前に僕の妹を亡くしたその頃は、家族全体が何もしてあげられなかったことに悔やむしかなかったのです。まるでグレーゴルの家族とは真逆の感情でした。それは僕や父親が純粋に妹のことを大切に思っていたからであり、もしそうでなければグレーゴルと同様の扱い方をしていたかもしれません。 


グレーゴルが抱くような実存主義からなる幸せは、変身した後も生き続けていたからこそ感じ取れる話であり、亡くなった人には少なくとも現実世界で幸せを感じることができないと思います。そういった意味で、「変身」することは「死亡」することよりも本人の感情が浮き彫りにされているように思えます。


振り返ってみればカフカの『変身』は悲しいだけのストーリーではなかったと思います。グレーゴルは確かに変身する前、家のためにたくさん働いてきた人物なので、家族の荷物に思われたことを非常に残酷だと思いました。また最初は何とか人間として接するように努めていた家族がグレーゴルを単なる虫として扱うようになるのはかなり衝撃的で理不尽だと思いました。ただ人間世界で何が最も幸せなのかというのは育ってきた環境によって価値観が変わるものなので一概には言えないですが、グレーゴルはあらゆる部分が人間離れしてしまっても家族への心遣いと愛だけは捨てずに亡くなり、そのことがハッピーエンディングに向かう唯一の選択だったのかもしれないとも思われます。人として家族のために必死で生き、毒虫になって虐げられて死んだことで、彼の望んでいた家族が団結して幸せになったと感じています。 


最初は主人公のグレーゴルにやたら感情移入してしまっていました。グレーゴルの身に起こる事象は精神疾患や適応障害によって起こるものだと思い込んでいたのです。まさにこのご時世のような先の見えない不安な状況で、例えば多くの人が感染に怯えることで却って周りの人を裏切りやすくなってしまうかもしれないというジレンマがあるかもしれなません。グレーゴルも同じように毎日部屋に籠って過ごしていると、元々自分は一人の人間なのにあたかも異邦人であるかような気分になり、また周りからもそういう風に見られてしまうので一層辛いことでしょう。それでも彼は家族から冷たい目で見られながらも色々と気を遣っている。そのことに僕は大いに感心しました。家族の立場になると、ある人がその人らしく居られなくなったときに相手をいかに受け入れるか、そしてどう接していくかということを改めて突きつけられているように思えます。


大まかな話の内容だけを見ると、一見グレーゴルが悲惨で家族が不愉快に陥る物語に過ぎないと思うのですが、そこから自分の家族の過去の状況と照らし合わせたときにたくさんのことを考えさせられました。