昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
夢の胡蝶が今の自分を夢見ているのか、それとも今の自分が夢で蝶になっているのか?
さらに、荘子は、何が真実かという問いかけに対して、この世の中には絶対的に真実といえることはない。ものの見方を変えれば、例えば己を「これ」と呼び、他を「かれ」と呼ぶ、しかし「かれ」からは己も「かれ」、「かれ」も「これ」である。このように物の見方は、立場をかえればなにが正しく、なにが誤りであるとは言い難い。
この荘子の考えをみていくと、「物事の本質」をどうとれえるか?。自分が学んできた知識はすべて、ある一面からみた知識に過ぎない。されに言えば今、生きている世界もだた一方から認識しているだけ。荘子が言うように物事は見方を変えれば全く異なる姿が見えてくる。ある事柄を一面から見ることなく、様々な観点から見る、すなわち複眼的に見る努力。それが物事の本質に迫れるコツかもしれない。
なんだか、奥が深い。
自己と他者、免疫細胞が認識をしようと躍起になっている。自分の体が免疫細胞に破壊されいく、その自分の体を壊している免疫細胞の立場からみると、彼らは自分の役割に忠実に従って頑張っているだけに過ぎない。そして、日本全国に30万人をこえる様々な自己免疫疾患に苦しんでいる人がいる。
自己免疫疾患で、免疫細胞が自分の体を攻撃していくさまをみると、同じ人間同士で、宗教や考えかたの違いで攻撃しあっている世界の状況が重なって見える。免疫担当細胞(それぞれの人間)がもっと寛容に他者を受け入れなければ、協調した社会は生まれないし、不幸がまっているだけである。
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まきむく通信