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読了 陸奥爆沈 吉村昭著

新潮文庫
昭和54年11月 初版発行
著者 吉村昭

また、吉村昭ワールドに引き込まれました。
旧日本帝国海軍が誇る巨大戦艦が突如、瀬戸内海 柱島沖停泊中に爆破沈没した。日本海軍首脳部はこの陸奥の沈没を秘匿するとともに、原因究明の調査を開始した。謀略説、火薬の自然発火説が入り乱れる爆沈の謎が渦巻く。そこに、日本帝国海軍が栄光の陰にひそむ、秘匿してきた事実が浮かび上がってきた。不沈と言われるような戦艦を運用するために、1000名を超える乗組員が必要であり、精鋭を集めてきた帝国海軍の一等戦艦であっても、すべての人員を完璧に掌握することは不可能である。乗組員一人一人に生活があり、喜びや悩みがある。そして、ドラマがある。外部からの力にどんなに強い鋼鉄の装甲があったとしても、内部からの崩壊には脆弱であったりする。一見、どんな組織よりも強固に作られた戦艦乗組員という組織であっても、完璧ということはない。一人の行動で、日本国民が爪に火をともし国家予算を寄せ集めて作った戦艦が、もろくも海の藻屑となる。現代社会のどんな組織も同様のことが言えるのではないであろうか?堅牢な組織を作ることの難しさということであろう。

瀬戸内海 柱島沖、呉海軍工廠、大燃料庫であった徳山要港に近い日本海軍のお膝下の停泊地である。。。



その後の引き揚げ
爆沈直後から海軍は「陸奥」引き上げを検討した。可能であれば3ヶ月の工期で再戦力化したいという希望を持っていたが、調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されたため、浮揚計画は放棄された。
1944年(昭和19年)7月、陸奥の燃料庫から重油の回収作業が行われ約600トンを回収した(竹作業)。終戦後の浮揚作業は、占領下の監視の為に行われなかったが、1948年(昭和23年)に西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始する。この際、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こり、作業は中断した。
1970年(昭和45年)から深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)主導によるサルベージが再開され、山口県大島郡周防大島町の陸奥記念館では、引き揚げられた艦首部分や武装の一部、乗員の遺品などが展示されている。引き揚げ当初は1500tクレーンによって艦尾引き揚げを試みたがワイヤーが切れて断念、その後1971年(昭和46年)3月15日に艦尾の浮揚に成功した。同様に第四砲塔が引き揚げられ、内部から数点の遺骨が回収された。沈没場所は浅い瀬戸内海であるが、潮流が速く、視界も悪いため潜水するのは危険な場所である。
2007年現在は艦体の約70%が浮揚され、艦橋部と、艦首部等を除く艦の前部分などが海底に残っている。
2007年(平成19年)4月7日、第六管区海上保安本部は測量船「くるしま」のマルチビーム探測機を用いて「陸奥」の船影を捉え、一般公開した。




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