読了:再読の「菜の花の沖」④ 司馬遼太郎著 感想など | まきむく通信(どうでもいいこと書いています!)

まきむく通信(どうでもいいこと書いています!)

ブログの話題として最近は登山記録が多いです。
読書記録とプラモデル、歴史など


Since 30.September.2012

<第4巻の感想など>
第四巻では、嘉兵衛がいよいよエトロフ島にまで行くことになります。幕府は蝦夷地の北辺がロシアの南下による領有の危機をしり防備を固める必要に駆られる。そのためにはエトロフ島へいく必要があるが、確立した航路がなく、この航路を見つけるという仕事が嘉兵衛に委ねられることになる。ロシア事情と幕府の蝦夷政策の二転三転という状況が細かく解説されて、とてもいい勉強になりました。

 

 

菜の花の沖 ③
前回のつづき。。。
 
司馬遼太郎著 文春文庫
約10年ぶりで再読中の「菜の花の沖」 いよいよ第4巻読了です。



 
ついに、嘉兵衛は、蝦夷の地。厚岸にたどり着く




 




<忘備録>
物語の背景や、気になるフレーズを書き留めております。(自分のための忘備録です)

・商人(あきんど)たる者は、欲に迷うな。(嘉兵衛が部下に教えたことば)

・江戸幕府は蝦夷地を直轄地にして経営をはじめることになるが。。。幕府自体が、結局はとる機関であり、出す機関ではないという本質があり、未開の蝦夷地経営は今後無制限に金を食っていく地でありはたして金を出し続けることができるであろうか?幕府はこの時期から8年間、松前藩との約束を破って東蝦夷地を返還せず、西蝦夷地を含めて全島を直轄領とし、松前藩を奥州梁川に移すにいたる。その後、直営主義の出費に堪えかね、場所請負制を復活させてしまう、さらには、文政4年に、この金のかかる島を保ちきれず、全島を松前藩に返してしまうということになった。

・厚岸(あっけし)湾頭に三角錐のような大黒島、袋のほうにまるい湾内を左右から岬と島が囲んで右を末広岬と大黒島で、左を尻羽岬。厚岸がアイヌ人の中心的な場となっていた。

・江戸後期の代表的政治家である松平定信は、老中首座をつとめること6年で退隠したが、その業績のひとつに人材登用がある。湯島の聖堂で学力試験をし、その成績により家格以上の役職への道をひらいた。

近藤重蔵 Wikipedia

・ロシアは16世紀の大航海時代のはじめごろは、まだ「モスクワ国家」として、ユーラシア大陸の小さな部分を占めるにすぎない国であった。

・千島列島は地理的発見時代の最後の段階になってロシアをふくむヨーロッパ世界が「発見」した地球の最後の部分であった。この北千島に最初に上陸したロシア人の部隊はざっとした列島の地図をつくり、その南端に松前島(北海道)、日本本州北部までの想像図を入れピョートル大帝に献上した。発見した土地については地図を皇帝に贈るのが慣例になっていた。

・ピョートル以来、西欧文明を吸収しようとするロシア宮廷のの努力と好奇心は、この時代、スペイン人がすでにうしなった精神でもあり、日本の場合は政治原理としてそれを抑圧していた。

・ロシアの地勢学的本能というべきものは、冬季に凍らない海岸への進出してゆくというものであったことは、しばしば指摘される。このロシアの外交・軍事的運動は、しばしば他国とのあいだに摩擦がおこった。

・嘉兵衛が上陸したエトロフ島はのちのちまでその領有をめぐり、本来平和な隣国同士であるべき日本とロシアのあいだで、不穏のやりとりの絶えない島の一つとなるのである。

・松前藩のながい怠慢により北海道本土ですら、沿岸を把握しているだけで、内陸の大部分はわかっていなかった。そのため蝦夷地の行政を行うため多くの探検家が出た。しかし、千島へは探検的航海者が必要であるが、幕府の人材は皆無であった。

・嘉兵衛は商人というより天性の航海者であったために名人というべき腕をもっていた、信じがたいほどのことだが、松前航路と主に多くの船を操っていたにも関わらず、かれ一代のあいだで、破船、難船ということがなかった。

・幕府の官制に、「番」と「役」があり「番」は武官であり、「役」は文官であった。

・幕府は奔馬のように逸りつづける貨幣経済と、その体質としの原則である米穀中心の経済の矛盾になやみつづけていたが、田沼意次はその「奔馬」に手綱をかけて飼いならし、各方面の財政難を救おうとして、多くの大名、旗本の反感を買うことになった。




<まきむく通信ブログ記事>
菜の花の沖 ①
菜の花の沖 ②
菜の花の沖 ③
菜の花の沖 ④
菜の花の沖 ⑤
菜の花の沖 ⑥


どうでも、いいこと毎日(平日)更新!
「まきむく通信」
(ブログの更新は土日祝はお休みすることになりました)