まきむく通信の「巻向への旅」(景行天皇陵と崇神天皇陵編) | まきむく通信(どうでもいいこと書いています!)

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まきむく通信の「巻向への旅」
景行天皇陵と崇神天皇陵編

大好評!
まきむく通信の原点となる巻向への旅!
5弾は、景行天皇陵と崇神天皇陵編です。
 
江戸時代には、じつは、この二つの古墳の被葬者は、いまとまったく逆と考えられていた!?
景行陵と崇神陵には、謎があるのだ!



山の辺の道に沿って2つの巨大前方後円墳が鎮座している。
上記航空写真を見ていただければわかりますが、この写真は北側から南を向いて写真を撮っています。北側の古墳が、崇神天皇陵(行燈山古墳=あんどんやまこふん)とされる、そして奥の南側の古墳が景行天皇陵(渋谷向山古墳=しぶたにむこうやまこふん)なんです。



実は、この二つの古墳は、江戸時代末までは、現在推定されている被葬者が逆であるとされていました。

まずは、今回のまきむくの旅では、南側にある「景行天皇陵」から、行ってきました。
景行天皇陵
 
さすが、今回のまきむくの旅を訪れた古墳の中で一番立派ですね。
 
しっかりと、堀が整備され立派です。
全長300mの巨大前方後円墳。この御陵は全国の古墳の中で第7位の大きさ、 奈良県内では見瀬丸山古墳に次いで第2位の大きさです。つまり、となりの崇神陵よりも巨大であるということです。
また、景行天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の父王として有名です。
 
景行天皇別名:渋谷向山古墳=しぶたにむこうやまこふん



次は景行陵のちょっと北側にある
崇神天皇陵山の辺の道に沿って北上しました。
  立派です。
  
 崇神天皇陵
 
前方側からの写真
 
後円側右側よりの写真
 


 
崇神天皇陵別名:行燈山古墳(あんどんやまこふん)


なぜ、この2つの古墳の被葬者は、混同されたのか?
「古事記」「日本書紀」の記載がある。

まず、崇神陵...
古事記「御陵は山辺の道の曲りの丘の上にあり。」
日本書紀「山辺の道の上の陵に葬りまつる。」

そして、景行陵...

古事記「御陵は山辺の道の上にあり。」
日本書紀「大和の国の山辺の道の上の陵に葬りまつる。」


ともに、ほとんど記載に差がなりのだ...
江戸時代の学者:蒲生君平
江戸時代の国学者:谷森善臣
かれらの、調査、研究を経て、現在の被葬者が決定されていった。


はたして、どうだろうか?
1:神武天皇
2:綏靖天皇
3:安寧天皇
4:懿徳天皇
5:孝昭天皇
6:孝安天皇
7:孝霊天皇
8:孝元天皇
9:開化天皇
10:崇神天皇
11:垂仁天皇
12:景行天皇
13:成務天皇
14:仲哀天皇
15:応神天皇 


2代の違い、約40年弱
古墳の形態を見てください。
先日も話しましたが、古墳は時代が下るにつれて前方部が後円部よりも大きく発達するのです。
上記掲載の写真を見ていただくとわかりますが...
崇神陵は 前後 1:2
景行陵は 前後 2:3
明らかに、景行陵の方が新しい形態である
さらに、崇神天皇は、日本全国に派遣した四道将軍がいるが、それらの古墳が全国に残る。
それらの同年代の将軍たちの古墳が各地に残されており、その形態がまさに、崇神天皇陵の形態の縮小版なのである。丹波、東海、北陸、西海に存在しているのだ。そのことからも、現在の被葬者が正しいことが推定されるのです。


また、古墳も巨大化していった時代であり、崇神陵よりも、景行陵の方が巨大なのも、自然である。


まきむくの旅、古墳って奥が深いです~!


↓古墳記事のまとめ↓
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