二胡のボランティア演奏と、居宅・介護施設への訪問マッサージをしています。
素人の二胡ボランティア日記ですが、本職は鍼灸マッサージ師をやっています。二胡ボランティアだけでなく、本職の方でも多くを学ばせていただいています。施設入居者様への訪問マッサージが主な業務ですが、良い仕事だと思います。天職だと思います。私達の仕事の主な目的は痛みの緩和であったり、関節の可動域や血流の改善だったり、肉体的な事です。が、それだけが全てでもありません。ただ正しい場所を正しく圧せばいいわけではありません。どう圧すか。どんな想いで圧すか。それが大事だと思います。たとえば。親が子供の頭を撫でるとします。丁寧だけど無感情になでるのと、無造作だけど愛情を込めてなでるのでは、どちらが嬉しいでしょうか?子供は撫でられる事の一体何を喜んでいるのでしょうか?毎日、マッサージをしながら色々なお話を聞かせてもらいます。一人一人に物語があり、誰かを愛し、誰かに愛され、必死に生きてこられた方々。私は最近、こんな風に思うようになりました。私の仕事は、「誰かになり代わり、目の前の患者さんに恩返しをする事」ではないか、と。ご家族様であったり、ご友人であったり。目の前の患者さんに感謝している「誰か」。そんな誰かになり代わり、マッサージを通して、ご恩を返す。それが、私がこの仕事を通してやるべき事ではないのかと。脳梗塞の後遺症などで、寝たきりになり、意志の疎通が取れない方もおられます。その方がどんな人生を歩んでこられたのかはわかりません。ですが、その方が愛した誰か。その方を愛した誰か。そんな誰かが、私の体を使って、マッサージを通して、今、この方への感謝を届けている。そんな気持ちになるのです。生き馬の目を抜くような仕事は、私にはとても務まりません。私に務まる職業は、そう多くはないでしょう。この仕事に求められる資質は、敬意と感謝。共に胸を痛め、共に喜ぶこと。良い仕事だと思います。天職だと思います。
早いもので250回。色々な事がありましたが、まだまだ新しい発見だらけです。呼んでくださる施設の皆様には感謝しかありません。今日の訪問では、これまでで最高の演奏ができました。最高の瞬間でした。先日の「五番街のマリーへ」で、演奏中に思いがけず主人公の気持ち(私の中では「マリーの父親」ですが)になりきれたことから、今回の演奏では全ての曲で「感情」を最優先に弾いてみました。「え、今まで何してたの?」とお思いの皆様、すみませんm(_ _)m私のこれまでのスタンスは「カラオケのガイド演奏」だったのです。事前に歌詞もFAXし、みなさんが気持ちよく歌うためのサポート役。伴奏の一部と言ってもいいかもしれません。そんな感覚で弾いていました。が、今回はとにかくそれぞれの歌の「感情」を弾いてみたい。楽しい歌は楽しく、悲しい歌は悲しく。「楽しそうに」とか「悲しそうに」ではなく、本当に楽しく、悲しく。その感情に染まるというか。そんな風に弾いてみました。恋の歌でも、偲ぶ恋あり、ほのかに慕う恋あり。それぞれに染まってみます。そのなんと味わい深く胸に沁みることか。これまで全く考えたことありませんでしたが、演奏者には、役者というか演じる者としての感覚も必要なのかもしれないと思いました。あくまで「表現」の一つの方法としての「演奏」ですもんね。「演奏者」はそれ以前に「表現者」なのだと気付かされました。そんなことに重きを置いてやってみますと、多少の音程のずれ(あくまでも「多少」)はもはや些事。そんなことより感情表現がしたい!!極論ですが、音程完璧でも誰の心にも響かないよりは、多少音程が外れても誰かの心に響く演奏がしたい。そう思います(あくまでも独りよがりにならない範囲で)。色々な感情で色々な歌を弾いて、ラスト「ここに幸あり」から「ふるさと」で演奏を終えた時の何とも言えない郷愁、感謝。何という祝福。何という恩寵。これは初めての感覚で、込み上げるものがありました。施設の皆様も終始なごやかで、時に笑い、時に涙し、それぞれの想いを込めて歌ってくださり、最高の一日でした。呼んでいただき、演奏させていただき、皆様の思い出に僅かながら彩りを添えさせていただく。これは。私のやっていることは。はたして「ボランティア」なのか?どちらが「ボランティア」なのか?私は、「ボランティア演奏」というものを通して、あまりにも多くをいただいている。あまりにも多くを学ばせていただいている。そう思わずにはいられない一日でした。
新年会での演奏、無事に終わりました。今までで一番、透明な感じで弾けたと思います。「五番街のマリーへ」の主人公に近い心境、不思議な感慨でした。録音したものを聴いたところ、全体通して音程が低く、「あんなに無心な感じで、こんな音程だったのか⁉︎」とちょっと衝撃的でした。演奏時の達成感と録音のギャップがこれほど大きな事は初めて。また基礎を頑張ります。ボランティア演奏での経験もあり、人前での演奏に対する緊張はあまり感じなくなりました。本番前、間違える事などに対する恐怖も、もう「今更」という感じがします。散々弾いてきて、散々失敗もしてきて、その恐怖自体に慣れた感じです。怖さはゼロではないですが、今更、さしてそれを重要とも思わなくなりました。どんなに練習しても失敗の可能性はゼロにはできません。ゼロに近づけることはできても。やれるだけのことをしたら、あとはもうどんなに心配しても残念ながら何のプラスにもなりません。人生も演奏も、間違える事を自分に許さないというのは、苦しいなぁと思います。間違えてもいい。間違えるという自由がある。それは、大きな解放感。実際、「間違い」と呼ばれているものは「思っていたのと違う展開」に過ぎない事が多いなぁと思います。「失敗」と思わなければ、寄り道というか、「たまたまいつもと違う道に入ったら、いつもと違う景色が見えた」という事じゃないでしょうか。それはそれで、貴重な彩のように思えます。失敗と思ったら予想外の展開になりノーベル賞に発展したケースも多くありますし、失敗を恐れてやらないよりは、失敗してもやってみた方がいいなぁと思います。演奏前にふと思った事がもう一つ。「ああ、この瞬間はもう二度と無いんだな」という事です。演奏が終わればこの緊張感も終わります。期間限定です。楽しかろうと苦しかろうと、もう二度と味わえません。「演奏前の緊張感」は演奏する度に感じますが、「今、この状況で、この曲を弾く自分」としてはもう二度とありません。演奏に限りませんけどね。そんな事を思ったら、緊張を楽しむ事は難しくとも、味わうのは悪くないなぁと思えました。また夏に向けて、弾きたい曲は山ほどありますので、少しづつ準備したいと思います。
もうじき二胡の新年会があります。今年はソロで「五番街のマリーへ」を演奏させてもらいます。この歌と「ジョニーへの伝言」は、ちょっと特別な歌でして。おそらく私の記憶を遡って行って、一番古い所にある歌です。幼少の頃、物心つく前から、母がよく聞いていたのを覚えています。異国情緒と言いますか、子供心にもとても美しく響きました。この歌の主人公とマリーという女性、どんな関係なんでしょうか?♪マリーという娘と遠い昔に暮らし悲しい思いをさせたそれだけが気がかり♪おそらく元恋人でしょう。しかし、今はまったく違って聞こえてしまいます。♪五番街で噂を聞いてもしも嫁に行って今がとても幸せなら会わずにほしい♪父親。それも、まだ幼い娘を置いて、出て行ったのか、別れたのか、会えなくなった父親。長い時が経っても罪悪感が消えない。父親と名乗ることももうできないが、想いも消えない。♪五番街は近いけれどとても遠いところ悪いけれどそんな想い察してほしい♪勝手な想像で泣けてきますわ( ;∀;)まあ十中八九、元恋人なんですけど、自由な解釈ができる歌ですよね。なんなら、長毛種の猫の可能性も( ´▽`)何でもかんでも「父親」という立場で見るようになって、歌までそんな風に聞こえるようになって。時に疼くようなこの感覚も、悪くないものです。堀内孝雄さんや布施明さんといったそうそうたる方々がカバーしている名曲。同じ歌がこうも違った輝きを放つかと、感嘆です。御本家ちあきなおみさん布施明さん藤井フミヤさん石川さゆりさん、高橋真梨子さん、松田聖子さん堀内孝雄さん私には、御本家と堀内さんと布施さんが特に沁みます。ちあきなおみさんの歌は、罪悪感 < 愛しさ 懐かしさ 感謝という感じで、やや晴れやかな感じがまた、もう吹っ切れた過去の思い出の小さなトゲといった風情でなんとも切なくてグッときますね。
雪虫に出会いました。お尻あたりに白いふわふわした毛が付いている小さな虫です。北海道のような寒い地域では大量発生したりすることもあるようですが、愛知県ではほとんど見かけませんので、遭遇できてとても嬉しい( ´▽`)見た目が妖精っぽいですが、アブラムシの群れの中で越冬前に生まれる存在だそうです。
一本の映画が、その後の生き方を変えることもありますな・・・これは、私の人生の他のどのタイミングでもなく、今、見るべき映画でした。それぞれの立場で。色々な視点で。泣けました。そして救われました。
叶わずに消えた願いが叶ったが故に砕けた夢が果たせなかった約束がいくつもあったかつて私が望んだことかつて私が願ったことそれがその夢が叶う対象が私である必要があるのか?その夢の続きを見るのが彼であり彼女であり見知らぬ誰かでもいいのではないか?かつて夢見た景色を彼が見ているかつて焦がれた日々を彼女が生きているあの日の約束を誰かが果たしている星の数ほどの他者の人生で叶えられた様々な想いに私は何と言葉をかける?おめでとうそしてありがとうそれだけでもう十分ではないのか?かつて私が望んだことかつて私が願ったことその夢が叶う対象が私である必要などあるのか?
昼頃、ラジオで子供向けの読み聞かせみたいな番組をやっていました。内容がシュールです。ぶっ飛んでいます。アリとキリギリスの後日談みたいな展開で、キリギリスを見殺しにした容疑でアリが裁判にかけられています。検察「キリギリスにどんな感情を抱いていましたか?」アリ「憧れと劣等感です」検「キリギリスが食べ物を求めて来た時はどうでした?」ア「優越感を感じました」検「あなたはこう考えたのではありませんか?このままキリギリスが死んでしまえば、もう二度と、この優越感が覆されることはない、と」アリはゆっくりと検察から目を逸らすと言いました。「私にも、わかりません」これ本当は何の番組だったんでしょうか?(;゚Д゚)どう考えても子供向けの読み聞かせではあり得ないんですが、番組の構成とかそんな感じなんですよ。いよいよ判決か、というところで次回に続くのですが、エンディングで一曲の歌が流れました。それが・・・アナと雪の女王から、「ありのままで」いやいや、もう「蟻のままで」としか聞こえない!今回だけアナ雪2の宣伝なのか、毎回この歌がかかってるのか、何もわかりませんが、なかなか衝撃でした。蟻がキリギリスを見殺しにしながら「少しも寒くないわ」とか嫌だな〜・・・色々と気になるけど、結末を聞くのも怖いな〜・・・
連日、高校野球を見ております。色々なドラマがあります。激戦の末に敗れたある高校の監督がホテルで選手たちに話した内容に、胸を打たれました。(以下概要)君たちの試合から、勝つとか負けるとか、そんなスケールの小さい事じゃないと教えられた。この涙は悔し涙じゃない。感謝の涙だ。監督冥利に尽きる。ありがとう。・・・いやはや、これには目頭が熱くなりました。敗れても熱く、誇り高く。今年も眩しいです。甲子園。
今朝、二階の窓の下にそこそこ大きな蜂の巣を発見しました。アシナガバチが群がっており、頻繁に飛び回っています。以前から、「たまに蜂を見かけるな〜」とは思っていたのですが、死角にまさか巣があるとは。衝撃です。窓から身を乗り出して、下を覗き込まないと見えません。場所も大きさも、蜂の数的にも、とても自分でどうこうできるものではないと判断し、業者さんに頼んで撤去してもらいました。今日の昼から夕方までに、私を含めて5件も依頼が入っているそうです。お疲れ様です。マッチョなイケメンさんが、真剣に、手際よく撤去して、再発予防の薬剤を撒いてくれました。興味津々で見てましたが、「惚れてまうやろー!」という感じです。お見事でした。皆様も蜂を何度か見かけたら巣があるかもしれません。お気をつけください。10〜15センチくらいの巣でした。合掌。
京アニさんの2016年作品「聲(こえ)の形」を見ました。難聴の少女と、小学生の時に彼女をいじめた同級生たちの物語です。派手さはなく、時空を超えたりもせず、静かに丁寧に展開していきます。原作漫画もこの映画も数々の賞に輝いた素晴らしい作品です。大きなテーマは「贖罪」。罪の意識を背負って生き続けるそれぞれの苦悩、償いの形。かつて自分が行おうとした償い方を、他人が行おうとした時、どのように映るのか。私はかつて主人公の少年と似た罪を犯し、似た報いを受けました。そんな自分の、あり得たかもしれない別の人生、別の可能性を見せていただきました。積年の何かが溶け、救われた気がします。ありがとうございました。
今回ご紹介する曲は、10年以上前に京アニさんが制作した「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメの劇中歌です。このアニメ自体は見ておりませんが、この曲は当時大変な話題になっていたので私も動画で拝見し、楽曲と映像のクオリティの高さに衝撃を受けました。ラストの瞬間まで実に熱い!学園祭のシーンで演奏されるオリジナルの歌ですが、劇場版でもない地上波のアニメで指の一本一本まで「演奏」をこれほどリアルに描いたものは見たことがなかったので、当時の私は大興奮、楽譜に起こして二胡で練習したものです。この一曲が縁で生まれた忘れ得ぬ思い出などもありました。京アニさんはその後「けいおん!」という女子高生バンドのアニメも大ヒットしています。X JAPANのYOSHIKIさんが京アニさんへ1000万円ご寄付されたとの事。頭が下がります。私もご支援の輪がさらに広がるよう願っています。今回の事件で被害に遭われた方々、ご家族、友人、ファンの方々・・・私には、言葉が浮かびません。ただ胸を痛めて祈るばかりです。日本のアニメ業界は、映画で言えばハリウッドに当たるでしょう。他国の追随を許さない圧倒的な存在です。この国に生まれ、少しばかり一般の人より長く深くアニメを愛した身にとって、恩人のような方々。これを書きながらも涙を禁じ得ません。まらしぃさんのピアノがまた泣ける・・・
昨日は暑い中をお越しくださった方々、ありがとうございました。おかげさまでいい演奏ができました。個人的にはこれまでの全ての発表会やボランティア演奏の中で、一番いい演奏ができたと思います。90点。全く緊張もしませんでした。理由は大きく三つ。一つは、本番中に客席上から舞台を照らす強烈な照明。これがものすごい光で、客席が完全に闇になってます。舞台からは、客席に人がいるのかどうかすら全くわからないほど、闇です。過去の舞台は客席がわりとはっきり見えており、こちらを見るたくさんの目に緊張したりもしていましたが、それが見えないだけで全く感じが違いました。「宇宙空間で目の前には強烈な光だけ」的な、不思議な体験に、頭の中が空になる感覚でした。もう一つ。これがとても大きなことでしたが、リハーサルで舞台に立った際、客席で見ている他の生徒さん達を見ながら、「みんな自分」と思ったんですね。見た目と役割が違うだけで、みんな一つの存在。全ての存在の奥に共通するたった一つの自分。そう思うと、自分相手に緊張しないです。ややこしい話を抜きにしても、みんな、同じ楽器を愛して練習してきた仲間です。その人たちが見ているからといって緊張はしなくなりました。そもそも発表会は勝負事ではないので、客席の人は全員仲間です。全員が応援してくださっている。1人も敵がいない舞台です。その人たちに対して緊張するって、何だろう?と思ったりしました。あと一つは、選曲でしょうか。カーペンターズの「I Need To Be In Love」。穏やかな、温かな中にも切なさがあり、その切なさの中にも希望が見えるような名曲です。弾いていて、味わい深い、グッとくる、沁みる。なんとも心地よい曲です。発表会などで弾く曲は、客席も自分も幸せな気持ちになるようなものを選びたいと思うようになりましたので、それも大きかったと思います。発表会は今回で21回目だそうです。私は多分5回目くらいから参加していると思います。長い間には、最高だと天を仰いだ演奏、最悪だと打ちひしがれた演奏、色々ありましたが、その集大成のような時間。趣味であれ、楽器を弾く身にとって、これ以上望めないような時間でした。師にも仲間にも楽器にも、感謝しかありません。
いよいよ発表会当日。私にとっての甲子園です。これまでの感謝も含め、万感の想いを込めて、演奏したいと思います。
アマゾンで珍しいものがありましたので買ってみました。テーブルランプだそうです。牛乳パックの上を切り取ったような形で、上から見るとこんな感じ。電気をつけるとこうなります。紙の内側に狼が印刷されています。部屋の電気を消すと、こんな感じです。光り方がいくつか選べます。下はロウソクのような揺らぎ。なかなか面白い商品。いい買い物でした。
印象深い出来事がありました。車で踏切に差し掛かかった時、ちょうど警笛が鳴りましたので、停車しました。対向車の高級外車の運転手は、大笑いで電話しながら、遮断機が降り始める中、猛スピードで踏切を通過していきました。遮断機が降りた時、こちらの歩道には小学生ぐらいの兄弟らしき2人。踏切の向こうには初老の男性一人。この初老の男性、電話をしながら遮断機をかいくぐり、線路を渡り始めました。認知症とかそういう事でもありません。左右を確認して、軽快な足取りで進んできます。それを見ていたこちら側の兄弟。弟の方が、「渡って良いの?」という顔で兄を見ます。兄はただ無言で、弟の手を取り、じっと立っています。弟も「分かった」というように、無言で立っています。その横を、初老の男性が大声で電話をしながら、通り抜けて行きました。多くは言いません。おそらくこのブログを見にきてくださる方は、私と同意見だと思いますのでね。ただただ、大人として、その少年たちに謝りたい気持ちでした。歳をとることは避けられませんが、どう歳をとるかは自分で決められます。そこには責任と、同時に、自由もあると思います。私も欠点は色々あります。良くも悪くも人間です。完全なんてことはあり得ない。それでも、せめて自分に恥じない自分でありたい。そう思います。
ボランティア演奏先にて、100歳になられた方がおられるとの事で、ハッピーバースデーを弾き、皆様にも歌っていただき、拍手で祝福させていただきました。演奏が終わり片付けていますと、多くの利用者様が私のところにいらして、「先生、おめでとうございます〜」と口々に祝福してくださいました。いやいや、僕が100歳になったわけではないんですよと言いましたが、「おめでたいね〜( ´▽`)」とニコニコ話しながら、皆様帰っていかれました。今日も良い方ばかりです。
♪青春時代が夢なんてあとからほのぼの思うもの♪なんて歌もありましたが、過去の自分を思い出して「あの頃、幸せだったな」と思うことがあります。今が幸せではないとかそういう話ではなく、その頃は気づかなかった幸せに、後になって気がつくことがあるという話です。過去の私には気づけなかった幸せを、今の私がそこに見ているように、今の私には気づけない幸せを、未来の私が、きっとここに見いだすと思います。もっとも、それは今の自分ではどうやっても感じられないものなのかもしれません。10代の私。40代の私。80代の私。同じ私でも、価値観が違う。体験したものが違う。80代の私は、40代の今の私を思い出して、「ああ、あの頃はまだ全部自分の歯で、食べたい物が食べれて、杖もなく歩けて、行きたい所に行けて、幸せだったな」と思うでしょうし、死の直前の私は、80代の自分を思い出して、「生きている」ということ自体を幸せだと思うでしょう。しかしそれは当時の自分にとっては、噛み締めてありがたがるような幸せとは言いにくい。その事が当たり前すぎる。やはり、それが当たり前ではなくなるまで、気づけない物なのかもしれません。それでも、総ていつかは失われていくものだと自覚するだけで。「この瞬間を、何気ない毎日を、いつか懐かしく愛おしく、思い出す時が来るだろう」と思うだけで。感慨深いものがあります。それだけでもう十分な気もします。
今年も二胡教室の発表会が開催されます。7月28日(日)13:30 開場14:00 開演名古屋市中区栄2-4-23長円寺会館 サンギータ無料私は二胡のソロと、中胡の合奏で参加させていただきます。ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず毎年、夏はやってきますが、それぞれの発表会に忘れえぬ思い出があります。今年は、どうなるだろう。悔いなく弾きたいものです。
昨日の名古屋は梅雨らしい天気でした。天気予報では1日曇り。夜中に雨。朝の時点では曇っておりまして、洗濯物を外に出すか迷ったんですが、念のため家干しで出かけました。昼になると嘘のような青空に。「しまったな〜、外に出せばよかった」と悔しがりながら仕事をして、帰ろうと車に乗り込んだら、今度は大粒の雨が。「外に出さずに良かった〜」と安堵のため息で帰りました。人生こんな事の繰り返しですね。途中の段階では、幸か不幸かわからない。一喜一憂もまた味わい深いものです。