ぼくは京都大学の加藤先生について大きな誤解をしていました。加藤先生はすごい映画研究書や映画批評本を書かれているから、てっきり映画だけがご専門だと思っていました。しかしそれは間違いであることが『荒木飛呂彦論―マンガ・アート入門』を読んでよーく分かりました。この本は荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』について語っていますが、それだけではなく同時に他のジャンルの芸術、つまり小説や絵画などとも濃厚に関連づけて『ジョジョの奇妙な冒険』の魅力を説明しています。これは本当にすごいことだと思います。なぜなら〇〇論と書かれた本はふつう、その論じている対象のジャンルしか扱わない場合が多いのに(漫画なら漫画だけとか)、加藤先生は芸術漫画がある種のイデオロギーを乗り越えるという点で、すぐれた小説や絵画とも十分に肩を並べることができると述べて、漫画論を通して広い視野で芸術についても語っているからです(この芸術漫画(アート・マンガ)という言葉じたいもこの本ではじめて知ることができました。昔は小説や絵画がハイカルチャーで、漫画はサブカルチャーだとか言う権威主義的な人が多くいましたが、それはもう時代遅れの考え方であるということが本書を読めばよく分かります)。
まず、小説に関して言えば、加藤先生は世界文学史上最大レベルのふたりのアイルランド人作家、ジェイムス・ジョイスとサミュエル・ベケットを『荒木飛呂彦論』の中で紹介し、『ジョジョの奇妙な冒険』との連関性についてうまく説明してくれています。ジョイスやベケットが複数言語をとおして、独自の言語で小説を書いていたために、読者は今ここにいる現実とは別の、新たな現実を知ることができました。『ジョジョの奇妙な冒険』も同様に、前述のように善悪二元論がゆらいでいる訳ですから、読者はありきたりの価値観とは別の新たな価値観をそこに読み取り、精神を豊かにして、人生をより意義深いものにできる、と加藤先生は述べています。この芸術が人間精神をより豊かにしてくれるということで、ジェイムス・ジョイスとサミュエル・ベケットの小説と『ジョジョの奇妙な冒険』を結びつけた加藤先生の考察は、大変深い考察だとぼくは思うのです。しかしながら、最近このネット上で『荒木飛呂彦論』について、本をうまく読むことができまない読者たちが、よく分からない批評をしているのを散見します。これは非常に残念なことだとぼくは思います。おそらくその人たちはジョイスやベケットのことを知らないのはもちろん、芸術が人生に与えてくれる意義まで深く考えたことがないのでしょう。
他にも『荒木飛呂彦論』の第五章の「美術史観点から芸術漫画を読む」というところで、加藤先生が『ジョジョの奇妙な冒険』で手(マニ)が現実的な表現とは違った形で提示されていることは、イタリア人画家パルミジャーノに起源をもつと解説してくれているところは、加藤先生のその漫画史の枠組みを越えた広範なリサーチにぼくは脱帽しました。またロイ・リクテンスタインが1960年代から「アメリカン・コミック」を自分の絵画の中に引用して、「アメリカン・コミック」という複製品が、リクテインスタインの絵画としてオリジナルな存在となって、コピーとオリジンの二元論を越えたような作品をリクテインスタインが制作したことと、『ジョジョの奇妙な冒険』で荒木飛呂彦が「幽霊屋敷」の中に本物のリクテインスタインの絵画を引用して、リアリズムとイリュージョニズムを一体化させるような空間を作り上げたこととは関連があるという、加藤先生の指摘のするどさ、すばらしさにも大変感動しました。またプッチ神父の歪んだ顔とフランシス・ベイコンの絵画が一致しているという意見にもはっとさせられ、加藤先生が豊かな解釈をしてくれたおかげで、『ジョジョの奇妙な冒険』がますますすばらしい芸術漫画であることが認識できました。
以上のように加藤先生は『ジョジョの奇妙な冒険』の魅力を、小説、絵画論と濃厚に絡めて論じてくれているのです。