前回の記事の続きです。
まず、京都大学の加藤幹郎先生が超長編漫画である『ジョジョの奇妙な冒険』を波紋(波)をキーワードとして、その物語の底流に存在している隠された主題系を明らかにしているところに感銘を受けました。ジョジョの読者である方ならご存知かもしれませんが、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは現在、その単行本の数は100巻を越えており、一冊の批評本に纏めることが大変困難であることが予想されます。しかし加藤先生は、その透徹な眼差しでもって、膨大な量の物語を広く深く見渡し、そしてその慧眼でジョジョの物語の本質を指摘しました。余談ですが、私は加藤先生の著作をほぼ全て読んでいるのですが、私が加藤先生の本が好きなのは、様々な表象媒体(映画、文学、絵画、漫画)を精緻に分析しているのはもちろんのこと、その対象への愛情も余すことなく書かれているからです。
話を『荒木飛呂彦論』に戻すと、今回、加藤先生は『ジョジョの奇妙な冒険』をその「形式と内容」の点で世界最高レベルの漫画であると位置づけています。物語における「形式と内容」という言葉を聞くと、ジェラール・ジュネットが物語を「物語言説(récit)」(テクストそれ自体、言語で表現された結果)と「物語内容(historie)」(語られる話の内容)に分けたことが想起されますが(ジュネットはあと一つの相として「語り(narration)」も設けている)、漫画における物語言説で重要なのは、物語を展開する上で大きな役割を持つ、漫画特有の表現手段、つまりコマ割りのことでしょうか、それが『ジョジョの奇妙な冒険』の中でいかに革新的な手法で表されているのかを加藤先生は見事に分析しています。
加藤先生は『ジョジョの奇妙な冒険』のコマ割りが「斜線齣割り(斜形)」になっていると述べています。旧来の古典的漫画のコマ割りが垂直線と水平線による「縦横線の齣割り(長方形や正方形)」であるのに対し、ジョジョではそれを刷新して、さらに登場人物たちの身体もそれに合わせて「斜傾化」(また、加藤先生はこれを「猫背」とおもしろい表現で言っていたりします)して、均衡と不均衡が綯い交ぜになった(まさに「奇妙な」)、すぐれたマニエリスム漫画であると指摘しています。そしてまたこのジョジョにおける斜めのコマ割りは、石森章太郎(石ノ森章太郎)のある作品の剣戟シーンにも見られると述べて、コマ割りの点で石森は荒木飛呂彦の先覚者であると言い、漫画史的な系譜に絡めて『ジョジョの奇妙な冒険』を入念に語っています(加藤先生は芸術家の本質を、「芸術家(アーティスト)とは、伝統的なメディア文化史をふまえたうえで、その延長線上で革新的な作品を創造する人のこと」であると明晰に述べていますが、まさに以上の『ジョジョの奇妙な冒険』におけるコマ割りを考えると、荒木飛呂彦が芸術家であって、また『ジョジョの奇妙な冒険』がアート・マンガであることが納得できると思います)。そして前述の均衡と不均衡が綯い交ぜになっているという点ですが、この調和と不調和が二項対立しないまま融合していることが、ジョジョの物語において極めて重要であって、単純な二元論(例えば勧善懲悪的な善悪二元論など)に陥らないことこそが、『ジョジョの奇妙な冒険』の魅力だと加藤先生は述べています。
『ジョジョの奇妙な冒険』では、一般的に「神父」、「国王」、「帝王」などの崇高なイメージをもった権威的な人々が、基本的に善人として描かれておらず、さらにこの物語では単純な善悪二元論に支えられてきた権威的なイデオロギーが回避されていると述べ、加藤先生は『ジョジョの奇妙な冒険』の本質を暴いています。そしてこれこそが重要なのです。
加藤先生は本書のなかで、人間は芸術によって、ある種のイデオロギーを乗り越えて、心身を豊かにし、人生の新たな意義を見つけることができると言っています。『ジョジョの奇妙な冒険』は加藤先生が言うとおり、単純な善悪二元論的イデオロギーを超越した作品であって、そのような意味でも読者の心を豊かにしてくれる、まさに加藤先生が定義した芸術漫画(アート・マンガ)なのです。そしてこの本は、漫画論を通して、このような芸術が人間に与えてくれる意義までも教えてくれる本当にすごい評論でした。