主体性?個性?創造性?日本人のつくる西洋のクラシック音楽の課題は | Olive Twigs

Olive Twigs

日本にいても、世界のどこにいても、自分を生きる

 

日本人のクラシックやアコースティックの音楽の演奏を聴いてみると、大抵はとっても器用に、精密に、技巧的なものもスムーズにこなしたり、きちんとした形にまとまっていて、おおらかに(良くも悪くも)、なんとなく最後までまとめた感じのものが多い海外の音楽の演奏と比べると、一様に仕上がりのレベルが全然違うのを感じます。

ただともすると、きちんと演奏することに心を注いでいるのは悪いことではないけれど、先生など誰か他の人に言われた通りに演奏しているだけに聞こえてしまう、セリフを棒読みしているかのような演奏に聞こえることも多いような気がします。

主体性とか個性とかいうような言葉で表されるような、その人の独自性を含んだ表現が生きているものを評価していこうという動きは、今日の日本の音楽の世界でも大きくなってきているのは確かにあるようです。

そもそもアートというものが、音楽に限らず、また絵画や彫刻や工芸、舞踊や舞台芸術、写真や映像のようなビジュアルアートのようなものにもとどまらず、日本で言えば、華道や茶道、マーシャルアーツと括られる武道系のものまでも含むように、何かの芸事としての形は持ちつつも、その中にその人なりの人生、生き様、人となりが滲み出るものですよね。

またそれは、ただの一個人で完結しているだけの独りよがりの人生ということではなく、世界としっかりつながっていて、周りの人々の共感を促したり、納得させたり、インスパイアできるような、知恵や力が備わったものでもあると思われます。そこには説得力が自然と出てくるのでしょう。

そういうエネルギーが音楽に備わる時に、それは生きた、力を感じる、特別なものになるのだろうと思えます。

その意味では、海外の音楽の演奏は、もちろんそういうものを音楽に乗せられる技術にたどり着いていない場合は難しいですが、ある程度技術などもしっかり伴ってくると、自分の持つキャラクターや意思、どんな風に表現したいのかという意図を、どんどん出してくることに暇がないように感じられます。そういうものを出すことに対しての恐れや躊躇がなく、むしろ堂々と自信を持って行っていくのです。

正直言うと、そういう自信ばかりが一人歩きしすぎている場合もあるなと思う瞬間もありますよ。でもそれは、日本人の演奏で、技術的にはとてもよくまとまって、それを前面にどんどん押し出してくるけれど、とっても平坦なものに終わってしまっていて、残念ながら何か面白みに欠けるようなケースの逆パターンとも言える気がします。

日本人は一生懸命に技を磨くことにおいては非常に長けていると思います。とても器用で、緻密なことにもまっすぐに取り組んで、成し遂げていけます。そうする過程では、何かを作り上げていく達成感や、それに取り組む間の充実感などもあって、苦労はあったとしても、すごくそこに浸れるのだと思います。その気持ちはよくわかります。

ただ、結局どんな音楽の世界を作り上げたいのか、どこに向かってそういう技を磨いているのか、詰めているのか、その大きなピクチャーを自分で描けているのかというのは、もう一つ大きな課題であり、しかもそれが、今一生懸命作り上げているもののバックボーンとなり、真価を決めていくのではないかと思います。

それを俯瞰して見出していける余裕、Nerdになるのではなく、何よりも自分の人生に責任を持ち、しっかりと建て上げていく道を取っているのと並行して、色々な世界を見て、触れて、経験して、色々な人と出会いながら関係を作りつつ、その中から浮き上がってくる自分というものを技術と共に表現していけたら、そこに描き出される世界はその人の唯一無二の、しかも力強い説得力あるものになるように思えるのです。