中学校英語で十分すぎる!英語で海外生活ができるのに十分な基礎ができています | Olive Twigs

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日本の中学校3年間で受ける英語の授業のカリキュラムは、はっきり言ってかなりきっちりきちんとした形にできています。高校まで入れれば、かなり高いレベルで英語という言語を扱える力が付いているはずだと思います。

というのも、実際に英語を話す国、環境に入ると、そこで日常の会話や仕事をしたり、役所関係の手続きをするにしても、ボキャブラリーの問題は別としても、文章を理解したり、自分で作ることにおいても十分すぎるくらい事足りると思えるのです。カナダに生活し始めて、実際に英語だけの環境で生活し始めてそんなにたたないうちに、そう実感したのを覚えています。「本当にあの中学校3年間の英語のカリキュラムはかなり良くできている!」と。

でも残念ながら、実際日本の子供たちが義務教育で習う英語の印象もですし、実際教えられる方向性も、高校や大学受験をパスするためというところに行き着いてしまっている気がします。

私も昔少しの間日本の中学生や高校生に英語を教えるチャンスがありました。私にとって、既にその頃は、英語は実際の仕事でも使ってきていたし、外国人の友達とコミュニケーションをとるために使うものになっていたので、いざ教えるにあたっても、「英語を使うために」という方向性は頭の中にはっきりとありました。でもそのうちにわかってきたのは、そもそもこの子に英語を使うような場に出て行くとか、そういう状況に入るだろうという期待がなかったり、そういう将来の自分の姿を思い描けなければ、どんなに私が使うための英語を教えたとしても、全然その子にとっては英語を学ぶ意味はないということでした。

 

英語を学ぶことによって、少なくとも自分の国のことを客観的にもっと見直せたり、良さを再認識できるとかいうことがあってもいいのかもしれませんが、ほとんどの場合それにすら行きつけていないようです。

英語を学ぶ意味や目標がはっきりとないほとんどの子にとっては、英語を学ぶことは、単なる苦行でしかないのではと思います。しかも高校や大学受験をパスするためにのみ学ぶという勢いが強い英語学習の環境で、高校や大学へ行くことを望んでいない子にとってはさらに意味がありません。そんな正直な子供達の気持ちや姿を目の前にしながら、それであったら、例えば自分の言語である国語、日本語の世界を深めたり、学ぶ時間を持つ方がずっと本人たちのために豊かな学びの時間となるのでは、とすら思えました。

英語にとどまらず、言語を学ぶということは、頭を使って学習するということではなく、赤ちゃんが座り始め、立ち上がることができ、歩き始めるようになるのと同じように、自分の生きる世界を少しずつ広げていくことと、実際の体感、筋肉が成長することとが一体となって自分のものとして身についてくるものだと思います。日本人が小さい頃から日本語を自然に習得してきたこととなんら変わりがありません。

こんなに国際化ということが推進されて、これまでになく多くの外国人が日本を訪れていたり、在住するようにもなってきているような環境になってきているのに、英語教育や外国語教育の方向性やあり方が何十年も洗い直されていないのは、残念という以上に、時間とエネルギーとリソースの無駄になってきているのではないか、とすら思えます。

少なくとも、英語学習が頭に文法や単語を覚え込ませて、試験の解答用紙の上にそれを吐き出すだけというところから離れて、もっと言語を習得する上での根本的なプロセス、人間の感覚を使って習得するような方向に進んでもいいのではないかなと思います。その方が、たとえ今は将来英語を使うことが想像できないような子でも、一旦自転車に乗れるようになっていれば、何十年ぶりに自転車に乗ったとしても大抵はスムーズに乗れるように、何かの際に役に立つ筋肉のように身につけられるのではないでしょうか。

頭で学習するかたちになるような、英語と日本語を対比したような教え方や、文法をコード分析のように、理屈っぽく教えすぎたりするのも、感覚的に英語を身に染み込ませるには良くないと思います。英語を英語の感覚の中で、そこにまっさらな感覚で飛び込んで学ぶことができるような、そんな学びの環境があったらいいのではないかなと色々と思いをめぐらせています。

英語は頭の中にまるできちんと磨かれて整った骨董品のように収めておくよりも、多少傷がついてもどんどん使って、傷や凹みがさらに磨かれて丸くなっていく方がずっといいと思います。少なくともそういうカジュアルなものとして教えてしまった方が、もっといい学習効果の普及につながるのではないでしょうか。

世界には日本人よりも英語をしっかり学ぶチャンスのない人たちが山のようにいて、そういう人たちがどんどんBroken Englishで道を開いています。