言われたことをきちんとできるだけの日本人から、自分にしかない個性も出せる日本人になる<2> | Olive Twigs

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日本にいても、世界のどこにいても、自分を生きる

 

前回の流れと同じ路線で、少し最近出会った具体的な例に触れて話したいと思いました。
それは、日本の学校に良くあるブラスバンド部、吹奏楽部について。そこからのお話です。

日本の学校の吹奏楽部というのは、突き抜けてレベルが高いところが目白押しで、世界中を探しても、プロフェッショナルでもないし、音楽を専攻しているわけでもない普通の学生たちばかりで、こんなにも素晴らしい演奏ができる吹奏楽部が、しかもこんなにも数多く揃っているというのは、あり得ないことのようです。

実はカナダの中学校や高校のオーケストラや吹奏楽のコンサートをあちこち招かれて聴きに行ったことがありますが、一応日本では、ピアノやバイオリンの発表会だとか、バレエの発表会だとか、誰もが経験する学校の学芸会や合唱コンクールなんていうものなどでも、ある程度きちんとまとまった形を作り上げていて、しかも緊張感もあるのが普通だったのを思い出します。しかしながら、カナダの仕上がり具合について言うならば、はっきり言って申し訳ないけれど、「この状態で舞台に上がってしまって、いいの?」というのが正直な気持ちでした。

というのも、みんなそれぞれの音がてんでバラバラ、好き勝手に好きなように楽器を吹いているという感じで、無理に一緒にやらなくてもいいんじゃないか、むしろソロでやったほうがいいのではとすら思えました。

もちろん楽譜に沿って、指揮者の示すテンポなどには一応ついていってはいるけれど、全体の一体感というものはどこへやら、同じトランペットでも、フルートでも、サックスでも、そこにたまたま一緒にいながら同じ曲を楽譜に沿って吹いているだけで、100人いれば100人が自分なりの世界で演奏している。。。どんな状況が繰り広げられているか、想像できるでしょうか。

それが日本だと全然違うと思います。お互いの音を聴きあい、全体でまとまって音楽を作り込んでいくことに、どこもが照準を当てて努力するのは普通の期待です。しかもそれは初期段階から当たり前のように行われることでしょう。
レベルが高いところになれば、例えばクラリネットを担当する子が6人いて、同じメロディーを吹いたら、まるで一人で吹いているかのような見事な融合があったり。一体となって同じ波に乗っているかのごとく音も出ていて、そのために技術的にもみなしっかりとしたものを身につけていると感じられます。

もちろんカナダにも上手に磨かれた、まとまりもしっかりあるバンドはあります。(見つかるのはかなり稀ですし、大抵はちゃんと音楽を専攻している生徒たちのものです。)ただこういったブラスバンドやらオーケストラや、舞踊や演劇の舞台など、集団でなにかの形を作ることにおいては、日本人が文化的、社会的に自然と持っている、「周りの動きを読んで合わせていくことに共通理解がある」という土壌は、とても恵まれた、アドバンテージのあるものだと思います。そのおかげで、日本中の小中学校や高等学校にあるブラスバンドの全体的な標準レベルも、おのずと高くなれるのでしょう。

ただこのように、まったく土壌の違う別の国で、しかもたまたまブラスバンドというもののあり方や姿を見たときに、集団と個人という相対する二つの軸に、それぞれどのような相互の関係性を見ているのか、というのはとても大きな、気になるポイントではないでしょうか。

ブラスバンドは、日本では本当にあちこちの学校に、レベルの差は置いておいても、当然のように存在するものだと思いますが、日本人の社会の課題がある意味集約されているような場の一つでもあるなと思わずにいられません。周りの人とどのように合わせてやっていくのか、一人一人が持つ技術や知識や技量をどう全体の成功に反映できるのか、しかも日本人には芸術的なスキルを磨くことへの熱心さもみなそれなりに期待も高いという特別な側面もあり、そのような要因も含めると、とても興味深い環境だと思います。

集団の成功のために自分の個性をなくしていくのか。それとも周りは関係なく、ひたすら個人の個性を尊重してやらせるのか。

前者では、全体としての成功はすぐに得られそうですが、ともすると一人一人は皆クッキーの抜き型で抜いたように同じものになっていきそうですし、後者ではいつまでたっても全体のまとまりはつかなさそうで、そもそも一緒にやる意味を見出すのも難しそうです。

個人と集団という切っても切り離せない二つの相対するものを、日本という特別な文化的社会的土壌を踏まえてどのように一番いい形に融合させられるのかなと、次でも考えてみたいと思っています。

また続きます。。。