日本人だけじゃない、北米人でも周りからどう思われるか結構気にします | Olive Twigs

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日本にいても、世界のどこにいても、自分を生きる

 

日本人は、周りとの和を大事にすることとか、周りの意見や考えや空気を変に損なわないように気をつけるとか、周りに気を遣う気持ちを持つようにすごく訓練されていると思います。同時にそれは、周りの目を気にしたり、摩擦ができるようなことはしないとか、自分の外にある周囲の人や環境が作り出すプロトコールとかち合わないように、自分を抑えたりすることにもつながっていると思います。

海外に住む外国人は、一般的にそんなに周りがどう思うかは気にしていなくて、自分がどうあるか、自分の考えや生き方や趣味趣向などを貫いていられることが多いと思われますよね。私がカナダに渡った当初は、周りの人たちが、ほぼ自分がその場で心地よければそれでいいかのごとく、自分主体で堂々と生きていて、他の人が自分のことをどう思うかは良くも悪くも全然気にしていない感じを目の当たりにして、とても衝撃的でした。

日本人のように細かいことにはこだわらず、「どうせ誰も気にしていないよ」、”Nobody cares.” という感じがあちこちに見える(実際そう言われることもありました)ことが、日本文化がしっかりと染みついている私にとっては、しがらみから一気に解き放たれるかのような自由を感じられて嬉しくもありつつ、同時に「でもそれでいいんだろうか?」、と心もとない気もしたり、複雑な気持ちにもなりました。

でも実際に何年もそういう環境に住み続けてみると、「あれ、まてよ。。。」と気がつくことが出てきました。

それは、カナダ人も日本人と違った意味で、ものすごく人の目を気にしている、どう思われるのかを気にしている人たちだ、ということでした。

どういう意味でかというと、社会的にどんな立場にいるのか、どんなポジションを得ているのか、どんな具体的な成功体験を持っているのか、どれくらいお金を稼いでいるのか、どれくらい大きな家に住んでいるのか、何台車を持っているのか、どんな資格をもっているのか、どんな教育を受けて、どんなタイトルを持っているのか、などなど。つまりこういう尺度から、自分がどう見られているかを気にしている、ということでした。

 

そういうことを巧みにアピールしてきたり、それがその人のアイデンティティーのようにすら認識していたり、その人の価値を決めるかのようにっているようでした。

以前に、元々イギリス出身で、その後南アフリカに夫婦で渡り、カナダに移住してきた知り合いが、「カナダ人は、数やサイズの大きさをとても気にする」と言っていました。確かにそういう傾向は強いなと感じられます。なんでもどれだけ大きいかで価値を決めるような。私がカナダに移住した20年近く前からすると、その勢いはさらに加速しているとも思えます。商業の中心であるトロントあたりでは、なおさらそんな気がします。

そんなわけで、どうしても自分を持ち物のサイズや収入、タイトルの大きさで証明しようとする勢いが強くなっていたり、自分は良くやっている、順風満帆だ、こんなに素晴らしくできる、自分は強い力のある人間だ、これもあれも成し遂げている、達成しているということを周りに見せることが社会的な立場を作っていったり、信頼を得られる道だとされている感じです。

目に見える成功や活躍の勢いや、エネルギーが盛んな感じを自分からアピールする感じ、そしてそれをお互いに認め合ったり、互いに賞賛したり、誇りに思ったりする空気が満ちているのです。

 

なので、そういう中で、弱音を吐けない、弱さを見せられない、自分の持っているものが小さいと正直には言えない、自分の弱点を見せたら社会から評価されなくなる、取り残されてしまう、居場所がなくなる、成功はできない、と思っているかのような空気すら感じるのです。

実際に何か病気や怪我、精神的にがっくりきてしまうようなことがあって、「大丈夫?」と聞いても、「大丈夫。私はすぐに元気になると思う。」という返事がすぐに返ってきたりします。病気で手術をしたり、出産しても、あっという間に病院を退院して、職場に戻ってきたりします。(最近はパンデミック後から自宅からオンラインで仕事をするところが増えてきているので、もう少し緩くなってはいますが。)

そういう不可抗力な状態で体調が思わしくないとか、力やエネルギーが出なくなった時に、十分に休息を取ることをしたがらないかのようです。日本にいれば、手術をしたとか、出産したとか言えば、少なくとも1週間くらい入院したとしても普通なことだという認識でしたから、そんなことをしてしまって、その後の健康をむしろ心配してしまうことが多かったです。

確かにカナダは医療費も無料であるため、それこそ大きな外科手術をしたとしても、一銭もお金を払わずに病院を後にすることもできるくらいですし、病院側としてもできるだけ多くの人に効率良く治療を提供していくために、ベッドをできるだけ開けていく必要もあるような事情もあると思います。

でもそれを別としても、あまりにもあっという間にベッドから出て、通常の生活に戻っていくのが普通、という感じが、まるで戦場でもあるまいしと、正直言って殺伐としたものに思えました。こんなにも息をつこうともしないのか、ゆっくりと自分をいたわる暇も与えないのか、はたまたそれほど「自分は大丈夫だ」ということを周りに証明していかないといけないのかと、どこか痛々しくなるような思いすらしたり。

自分の弱さを見せると、自分の社会的な立場が危ぶまれるのではないか、という恐れや不安がそこにはあるのかなという気がしました。それはある意味で、社会への帰属意識、居場所を確保していたいという人間の自然な願望でもあるのだと思います。でもそれはひいては自分で自分の弱さを受け入れたり、認めたりできなくなるのを加速してしまうとも思えます。そしてなおさらつい虚勢を張ってしまう、という悪循環にはまりがちにも見えます。

それが私がカナダに移住して何年か経ってから気づいた、「カナダの人も結構周りの目を気にしている」ということでした。

日本では、周りの目を気にするときには、周りに迷惑や負担になってはいけないという意識も大きく働きますが、でもこのカナダの人々のように、周りから弱いものに思われたくない、社会的な弱者、恵まれていない状態にいると思われたくない、見下げられたくない、というような種類の不安や心配から周りの目を気にするというのはいくらでもあると思います。私もその社会の中で生きてきましたから、その気持ちもよくわかりますし、自分もそういう気持ちになったことは山のようにあります。

でも面白いなと思ったのは、カナダ人であっても日本人であっても、多分他のどんな国や文化の中にあっても、人って社会の中で場所を確保していたい、つながっていたい、安心していたい、という願望があるんだなということでした。


そういう気持ちって、ユニバーサルなものなのですね。

外国人と見ると、どんなバックグラウンドなのか、どんな考えや性格を持っているのか、どんな生活習慣を持っているのか、と色々と見えないなと思う部分が大きくなると思うのですが、少しじっくりと腰を据えて見てみると、心は同じものを探しているんだなと見えてきます。そう思うと、世界の見え方も違ってくるようですよね。