知らない言葉を 覚えるたびに 僕らは大人に 近くなる

けれど最後まで 覚えられない 言葉もきっとある

 

何かの足しにも なれずに生きて 何にもなれずに 消えてゆく

僕がいることを 喜ぶ人が どこかにいてほしい

 

(いし)(みき)(みず)よ ささやかな 者たちよ 僕と生きてくれ

 

くり返す哀しみを 照らす灯をかざせ 君にも僕にも すべての人にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ 名もなき君にも 名もなき僕にも

 

 

たやすく涙を 流せるならば たやすく痛みも わかるだろう

けれども人には 笑顔のままで 泣いてる時もある

 

(いし)(みき)(みず)よ 僕よりも 誰も傷つけぬ 者たちよ

 

くり返すあやまちを 照らす灯をかざせ 君にも僕にも すべての人にも

 

命に付く名前を「心」と呼ぶ 名もなき君にも 名もなき僕にも

(いし)(みき)(みず)よ 僕よりも 誰も傷つけぬ 者たちよ

くり返すあやまちを 照らす灯をかざせ 君にも僕にも すべての人にも

 

命に付く名前を「心」と呼ぶ 名もなき君にも 名もなき僕にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ 名もなき君にも 名もなき僕にも”

 

 

私が中学生になった13歳からのご贔屓である中島みゆきさんが作られた「命の別名」という歌の歌詞である。

私自身、テレビジョンでドラマという番組はほとんど視聴しないので詳細は分かりかねるが、どうやら1998年1月9日から3月27日までTBS 東京放送系列局の「金曜ドラマ」枠で放送されたテレビドラマ「聖者の行進」というドラマの主題歌に使用されヒットしたらしい。

 

 

本年8月7日にわけのわからない「肩書」“メンタリスト”を標榜する方が『路上生活者や生活保護受給者に使う金があるなら猫に使え。路上生活者や生活保護受給者を生かすのに金を使うな。』との趣旨の動画を公開し、世間中より大非難を浴びることが起きた。

まあ一言でいえば「優生思想」そのもので、「明日は我が身」との想像すらできない哀れな中身が空っぽな頭でっかちで自惚れた思考を持つ無知無能な者の戯言なのだが、現代社会の中ではこの「思考」は到底受け入れられることはできないであろうし、私自身もこの発言は許されざる次元の言葉だと思う。

 

しかし、このような思考そのものが絶対的に間違いとは言い切れず、時が変わればこの思考が的外れの差別発言ではない時が訪れる可能性は残るとも思う(流石に猫以下の扱いはあるまいが)

そのような時は、今般のコロナ禍で実際の医療現場では“実行されかかっていた”という事実を決して知らないで済ましてはいけないと感じている。

その実行されかかった事案=「トリアージ」である。

この「トリアージ」は医療の現場に立つ者に対して大変高負荷な判断を迫ることであり、生涯「トラウマ」としてこの苦悩を抱えてしまう医療従事者も出てくることは避けられない。

疾患、受傷の重度具合により「命の選別」を行わなければならない医療従事者にとって、目の前に横たわる「生命」を見捨てる、見殺しにしなければならなくなる行為だからだ。

 

『命に付く名前を「心」と呼ぶ 名もなき君にも 名もなき僕にも』

このわけのわからない「肩書」“メンタリスト”を標榜する方には「心」がなく、ご自身の「命」は(貸し)与えられたもので、あらゆる「無名者」に対して尊厳、敬意を持つという大事な「意識」が欠如しているのであろう。

 

過日、とあるツールで交流を持つ方との会話をご披露したが、同じくこのトピックについても下記のような文言をお届けしたばかりだ。

『現代日本人はTakeすることだけに固執していると強く感じています。

代表的な人々が「転売ヤー」でしょうか。

人生、死ぬまでにGiveTakeは綺麗に清算されるもの、と私は考えていますし仏教でもそう説いています。

Takeだけに固執をするその結末は、いつかどこかで誰かに、何かをTakenされる。

それは命かもしれませんし、大切な家族、平和な日常かもしれません。

 

シンガポールや欧米諸国では"Donation""Contribution" 「寄付」の文化が根付いています。

この「寄付」という行為、誰かに分け与えるという行為が多くの幸福感を齎しているという報告があります。

残念ながら幸福感の低い日本には「寄付」、与えるという文化が廃れ、「奪われないこと」に終始しているとお感じになられませんでしょうか。

過日、訳の分からない職業「メンタリスト」を名乗る方が「生活保護費」を払うくらいなら、そのカネでネコを助けろ、との趣旨の発言をされました。

私はこの考え方を一切肯定は致しませんが、この思考が間違っているとは敢えて申しません。

と言うのも、間違っていると言ったところで、この類の方々の思考が他者からの言葉で簡単には変わらないことを理解しているからです。

また、間違いという価値観は現代社会に於いては正しいかもしれませんが、未来永劫同じ価値観が正しいものと言える保証はどこにもない、というべきだとも思います。

ですが、この訳の分からない戯言というか偉そうに語った薄言(私の造語)に象徴される「Giveしたくない」「Takenされたくない」感情が現代日本社会に蔓延していると言えるのではないですか。

日本国もまた、Giveできない国家となっていると感じるのは私だけでしょうか?

 

しかしながら、先に書きました通り、成熟した社会を構成している国では「与えること」で喜びを感じ、結果精神的、経済的に豊かになっているという事実が全てを物語っていると私は分析しています。』

 

 

この国全体が大変弱者に冷酷になっていると痛烈に感じるのは私だけであろうか。

「自分の納めた税金を他者に使うな」という発想、思考に囚われ、事の本質、物の本質を見失い、目先、上辺だけの損得だけで判断をしているのではなかろうか。

 

「奪われることへの恐怖」に満ち溢れ、手にした物、事、権利を手放さず、更に手に入れることに終始している。

持ちきれないモノを持つと必ず零れる(毀れる 毀損の“毀”)

毀れ落ちたモノに対する執着、それが他者、弱者に対する攻撃という形で表面化しているのではないかと仮説を立てるに至った。

 

『何かの足しにも なれずに生きて 何にもなれずに 消えてゆく

 僕がいることを 喜ぶ人が どこかにいてほしい』

 

大多数の人は「無名」のまま、その生涯を閉じることになる。

しかし、「無名」であったとしてもその存在価値、生きた証は必ずどこかに残っており、その証が「誰かの生きる力」、「命の灯」となって寄与しているはずだ。

『何かの足しにも なれずに生きて』いたとしても、そこには「人としての尊厳」があり、他者より尊敬されなくとも卑下、差別される存在ではない。

 

では、何故これまでに他者攻撃が顕著に行われてしまっているのか?

それは「満たされない心」がそうさせているのであろう。

 

 

自己肯定感、自尊心が低い傾向の強い日本人に欠如しているのは、多種多様な価値観に触れる機会の欠如ではないかと私は推測している。

「同じ価値観、同じ学力、同じ行動」を強いられる学校教育の場で、個々の児童、生徒が持つ「個性」と「価値観」を木っ端微塵に粉砕し、一方的に「押し付けられる」思考方法が総てであり、その従順さが「学力」という形で評価される危険がこの国に閉塞感を齎しているのではないか。

 

多様性が新たな「価値」を生み出し、技術革新へと昇華していくものだ。

だが、変化を嫌い、保身に凝り固まる組織上層部が悉く(ことごとく)配下の者に「単一性」「同調」「挑戦しないこと」求め、自身の任期中に不祥事を含め表立つ立場に立たされないことを強要している。

 

『失敗は成功の母()

Diversity 多様性を求める過程で失敗、想定外の事象発生はつきものだ。

『たやすく涙を 流せるならば たやすく痛みも わかるだろう

 けれども人には 笑顔のままで 泣いてる時もある』

失敗に涙はつきもの。容易く涙を流せるならば、容易く痛みもわかるようになる。

だが、挑戦すらせず、涙を流すことさえしないから、「痛み」を経験する機会が削がれるのではないか?

 

世界中、「無名な者」が世の中を作っている。

その「無名な者」其々に辛い涙を流し、『くり返すあやまちを 照らす灯をかざ』すことで、後進の足元を照らす「灯(あかり)」として寄与するものではないか。

 

人の持つ価値観は百人百様であり、その一つひとつ全てが正しく、間違っている側面を持ち合わせている。

いい加減、「画一的価値観」を「絶対価値」と捉える教育に終止符を打ち、様々な価値観、個性、そして無難な生き方を選ぶ平凡な生き方を変えてみる時期ではないか。