エホバの証人から、一般的クリスチャンの『誤った見解』なるものを教わった。

クリスマスはキリストの誕生日である。
No!
聖書中羊飼いが外で眠れるのは秋までであり、12月は戸外で眠ることなど出来ない。

キリストは十字架にかけられて死んだ。
No!
十字架は古代からの異教のシンボルであり、キリスト教で民衆を教化しようとしたローマ政府のねつ造であり、当時のはりつけに使われたのは、単なる一本の杭である(事実、十字架ではなく、一本柱にくくりつけられた磔の絵も存在する。)

何故エホバの証人はイエスの誕生日を祝わないのか。
Answer!
キリストは自分の誕生日を祝えとは言わなかった。むしろ、弟子達に自分の死ぬ日を記念し続けろ、と言ったので、それを守り行う(記念式)のだ。



当時はこの教えに満足したものですが、それも全てはキリストが実在したと言う前提にかかっています。


昔私がエホバの証人になった時、親戚の伯父が、
「あほあほあほ。聖書なんか誰が書いとるかわかったもんやない。
あんなん全部うそや。モーセとかが書いてへん。全然うそや。」

と言われ、
「なんて無茶苦茶を言うおっさんか~。」
と思いましたが、後に彼が正しかった、と思うはめになりました。




さて。
イエス・キリストが存在しなかった、と私が疑う10の理由。

①聖書に『ナザレのイエス』と言う記述があるが、
イエスが生まれた当時、『ナザレ』と言う場所はまだ存在しなかった。

イエス以前に書かれたイエスそっくりの神話の人物
イエスが生まれる1200年前の東方のヴィリシュナの伝説。
無原罪懐胎処女から生まれたヴィリシュナは生まれてすぐ暴君に命を狙われ両親は安全のため彼を連れて逃げた。暴君は二歳以下の幼児を虐殺した。彼が生まれたとき天使と予言者が居合わせ、金と沈薬が送られた
。救世主とあがめられ、数々の奇跡を行った。病人をいやし、目の不自由なものを治し、死者を蘇らせた。二人の盗人の前で十字架にかけられた。地獄に堕ちたが死から蘇り復活した。

イエス以前に書かれたイエスそっくりの神話の人物
フリギアの息子 アッティス
12月25日処女の母の元に生まれ、救世主と呼ばれ、一人息子で人類を救うために死んだ。金曜日に十字架にかけられ、彼の血は全人類を救うために流された。釘と苦しみに耐えながら死んだ。彼は父と子と一体であった。墓穴に入り地に下ったが、三日後の3月25日に肉体が墓から消えているのが見つかり最高神として蘇った。その体はパンに象徴され、彼をあがめる人々はそれを食べた。

イエス以前に書かれたイエスそっくりの神話の人物
インドの神クリシュナ
12月25日に処女の母から生まれた。父は大工だった。星がその誕生地を示し、天使と羊飼いがその誕生に立ち会った。支配者は彼を亡き者にせんとして、何千人もの幼子を殺したが、彼は生きのび、その後数々の奇跡を行って…略…木にはりつけにされ死から蘇り、救世主として崇められた。

イエス以前に書かれたイエスそっくりの神話の人物
神の息子 ディオニソスまたはバッカス
12月25日処女の息子として生まれる。
産着にくるまれて飼い葉桶に入れられた。
水を葡萄酒に変え、神の中の神、王の中の王、一人息子、罪の担い手、聖なるもの、永遠、であった。
木に磔にされ3月25日に死から蘇った。

以上、神話引用はデーヴィッド・アイクの竜であり蛇である我らが神々上巻です。
興味がわきましたら429ページから459ページを読んでみて下さい。


⑥歴史学者ヨセフスはイエスが実在したと言われる時代には生きていなかった。
彼が生きた時代に行った奇跡の数々や裁判、はりつけ、激しい地震は当時の大ニュースであったはずですが、該当する歴史的記録をその時代に生きた歴史学者は誰一人書いていないのです。そしてヨセフスは華麗な文章で有名な学者です。歴史の検証の文献に華麗さも想像も無用・むしろ邪魔ではないでしょうか。政府側に雇われたライターでは?と疑ってしまいます。

⑦キリストと名乗る人々のあまりの多さとインチキぶりの激しさ。
もしもキリストが実在し、今も人類を守っているならば、まず彼らを先に正すと思いたいです。
キリストは、事実存在しなかったか、今は全く力を持っていない状態か、偽物から人々を守ることは彼の仕事でないと言う理由があるか、のどれかなのでしょうね。三番目はこの記事のテーマとそれますが。


⑧最近聞いた説では、イエスは聖書の記述が途絶える14歳から30歳の間、世界各地を修行していたそうです。
インド、中国、日本。そして最後は日本で息を引き取ったそうです。
聖書の記述と言うのが、実のところ神話の切り貼りだとしたら、この世界各地にペタを残していたイエスと言うのは誰だったのでしょうか?人間って乗せられやすくて便乗しやすいたちなのでしょうか?


⑨キリストは愛の神の息子で、人類を誰よりも愛している存在です。
でも聖書はハルマゲドン後、神に従わずバプテスマを受けない人類は罪の大小を問わず、白い馬に乗って軍勢を引き連れて、この世界を罪に定めて新しい世界を作るのです。
結局、愛の神の息子、愛に溢れたキリストなどは何処にも…少なくとも聖書の中にはいないのです。


⑩聖書が無ければイエスもあり得ません。聖書は何十回も書き直された長編小説だったのです。それでもまだ、『聖書』は無くてもキリストの魂は存在する、と頑張るスピリチュアルな人がいます。
信じるものは救われます。私だって救われたいけれど、自分で自分をだますことはできないのです。


おかげさまで私が聖書をまるっぽ受け入れるエホバの証人ではいられなくなった理由の必要十分条件でした。(エホバの証人Q&Aも大きかったですが)

それでもタイトルが『イエスを疑う』なのは、あまりに大勢の人々が彼を思う故に、霊の世界には「彼」のエネルギーフィールドがあるのだろうか?と思ったり、本当に存在したが故に、後年彼を否定する材料とするためにあえてねつ造されたのか、とか、数々の神話に登場する人物の共通性こそがイエスを表すのか?と思ったり。でもそれは確証の取れない、それこそスピリチュアルなテーマでしょう。





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ありがとうございました。