(1934/西脇順三郎訳、創元推理文庫、
1959.6.20./1976.2.20. 39版)
ちょっと
確認したいことがあって
再読してみました。
最初に読んだのは
中学生の頃ではないか
と思います。
本書のキモともいえそうな
最初の殺人の動機については
しっかりと記憶しております。
そして、これはないよ
と思った記憶もありますけど
そのためかあらぬか
それ以来、読み直さずに
今まできてしまいました。
あらすじは省略しますが
以下、プロットについて
思いついたことを書きます。
ネタバレはしないように
注意してますが
まだ読んだことがなくて
まっさらな状態で読みたい
という方は
ご注意ください。
ポワロは最初の事件と
休暇先のモンテカルロにおいて
第二の殺人を知らされる際に
ちょっと顔を出してからは
後半、素人探偵たちの
「顧問」として名乗りをあげるまで
ほとんど顔を出しません。
で、その素人探偵の調査パートは
『アガサ・クリスティー完全攻略』で
霜月蒼が書いているように
「ものすごく退屈」でした(笑)
霜月も上掲書で引いてますけど
ポワロが作中で
次のように言っています。
イギリスじゅうを駆けまわり、望みをかけてあの人この人ときいて見たりすることなどは、しろうとくさい方法です。ばかげている。真実はただ内部からのみ見つかるのです(p.277)
このポワロのセリフを読んだ時
「ばかげている」調査を
それまで読まされてきた読者は
どう思ったでしょうね。
自分は今回
退屈だと思って
読み進めてましたから
苦笑しただけで済みましたが
中学生の頃にこの台詞を読んで
どう思ったものやら。
まあ、中学生ですから
読み飛ばしているかもしれませんし
自分はポワロ側の人間だと
無条件に思い込んで
にやにや笑いながら自慢げに
頷いていたかもしれません。
あと、今回読んで思ったのは
本書のプロットを発展させたのが
数年後にクリスチィが書く
某有名長編かも
ということでした。
ネタバレだと思う人が
いるかもしれないので
題名と発表年は伏せたため
何がなんだか
分からないでしょうけど(笑)
ご容赦ください。
なるほど、この動機なら
犯人の背景も
こうしなくちゃならなかったわけだ
とも思いましたけど、と同時に
こういう背景からくる犯人の心理は
ある種の時代精神の表れかもしれない
とか思ったりもしました。
そういう
犯人の精神状態については
現代でも通用するところが
あるのかもしません。
メイン・プロットだけでなく
素人探偵たちの調査を描くあたりや
ポワロを古風な人間とみなす若者が
登場するあたりなんかも
後年の長編で見受けられる
と感じたりしました。
前者については
続く『大空の死』(1935)と
『ABC殺人事件』(1936)で、
後者は『大空の死』でも
踏襲されているのではないか。
(というふうに記憶しておりますw)
この時期の
クリスティー作品における
趣向やプロットの共通性について
ちょっと考えてもいいのかも
ということを思いついたのは
怪我の功名というか何というか
ちょっとトクした気分です。
デビッド・スーシェが
『ポワロと私』の中で
ポワロは証拠を調べるために
ひざまずく時でも
膝にハンカチを敷くに違いない
と書いてましたけど
本書の中に、ひざまずくシーンがあり
そこではこう書かれています。
彼は、倒れた男の側にひざまずいた。ポワロが調べていいる間、みな後に引き退っていた。ポワロはズボンの膝のホコリを払いながら立ちあがった。(p.253)
ハンカチ、敷いてないじゃ〜ん!
まあ、訳によって
あるいは底本にした
テキストによっても
違うのかもしれませんけど
それにしてもねえ。( ̄▽ ̄)
訳は少々古くてですね、
「執事ってやつは、僕には不器用な
燻製のにしんみたいに思える」(p.97)
という台詞は
今の自分であれば
レッド・ヘリングだと
脳内変換して読めますけど
中学生の頃は分からなかったろうなあ。
「エドガー・ウォリスの小説みたい」
(p.82)という台詞は
エドガー・ウォーレスだと
中学生の頃の自分でも
脳内変換できたでしょうけど。
あと、
細かいことですが
手元にある本の
原題と発表年が記載されている
前付けでは
発表年が1935年になっています。
これは誤記・誤植というより
翻訳に使った底本が
1935年版だったのかも
とか思ったりした次第です。
(本当にそうなのかどうかは
分かりませんけど)
ただ、
巻末の中島河太郎の解説でも
1935年になっているのは
ちょっと困りものですけどね。
翻訳書について書くときは
最初に記すようにしている
原書の発表年代を
危うく間違うところでした。
やれやれでございますよ。